反資本主義・生活デザイン課

やりがいのない仕事を逃れ、芸術的に生きるための知と実践。

脱成長こそが真の保守である

「れいわ新選組は、「左派ポピュリズム」等々の不当な評価を世の中から受けている〔……〕れいわ新選組こそが本当の保守」(古谷経衡)

※2022年12月8日 れいわ新選組 記者会見にて

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(普段は親しみやすいようにと敬体で書いていますが、今回のように理論的性格の強いものに関しては、私が書きなれている常体で書きたいと思います。)

 

 

 

 本ブログは「反資本主義」を掲げているが、より詳しく言えば、脱成長主義である。

脱成長主義とは、経済成長(GDPの上昇等)を至上命題とした政治に対する否である。誤解してはならないのは、これは「もう経済成長なんてできないよ」とか「経済成長なんて諦めようよ」という悲観主義ではない、ということだ。

そうではなくむしろ、「経済成長を直接目的とするのではない政治へ方向転換することで、私たちの生活はもっと豊かになる」という希望なのだ。

 

 

斎藤幸平『人新世の「資本論」』

そしてもう一つ、特に私の個人的な見解について言えば、脱成長主義は利他主義ではない。むしろ私たち一人ひとりが適当にダラダラ過ごせる快適な生活を作りだすための、めちゃくちゃ都合がいい話なのだ。

 脱成長主義のバイブルの一つとなった斎藤幸平『人新世の「資本論」』では、脱成長こそが環境にやさしい生き方をもたらし、気候危機を防ぐことができる、と語られている。そう聞くとなんだか環境のことを思いやり、諸外国の人々や未来の子供たちのことを思いやる利他主義のように思えてくるが、そうではない。

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 同書をよく読めばわかることだが、私が脱成長主義で最も面白いと思うのは、経済成長を目的化するのをやめて、環境に無理強いしない生活をすることで、結果的に、私たちは無駄な労役や金の乱費から解放されて、めちゃくちゃ贅沢な生活をすることができるということだ。実際、斎藤は多くの対談の中で、「週25時間労働、いや週15時間労働」ということを語っている*1

 みんな、今の自分の労働時間を振り返ってみてほしい。週15時間ということは、単純に平均しても平日各3時間だけの労働。あるいは週休を3日、4日と増やすこともできる。その自由な時間は全部自分の好きにしていいのだ。惰眠を貪ってもいいし、労働が少なくなって体力も余っている分、趣味のスポーツや読書、芸術活動に精を出すこともできる*2

 

 だがこれは当たり前のことなのだ。だって、人は本来、必要な仕事を必要なときにやればいいだけなのであって、今日一日を食いつなぐために過労死寸前まで賃金労働しなければいけないいわれは無いはずなのだ。少なくとも、そんなことしなくても生活していけるだけの技術力がある現代ならば。『人新世の「資本論」』が言おうとしているのは、「技術も生産力も十分すぎるくらい揃っているのだから、あとはそれをちゃんと人々に行き渡るように使えばいいだけなんだ」ということだ。現在、アメリカを初めとする「先進国」では肥満が増え、いわゆる「発展途上国」では飢餓が無くならない。食料は死ぬほど余っているのに、それは分配されないまま大量廃棄されている。素直に考えて、これは非合理極まりないのではないか?

www.hanmoto.com

 

 そして、言うまでもないことだが、我々の生活を守るということは、我々の文化を守るということだ。想像してほしい。いま日本で、いや世界中で、一体どれだけのクリエイターが魂を売ることを強いられているのか。本当は自分が納得のいくものを作りたい。しかし日銭を賄うので精一杯で、物を作る時間も体力も精神的余裕も奪われてしまう。あるいは、「売れる作品を作らなきゃ」という強迫観念に囚われ、誰でも一瞬で消費できるような、全く深みのないものを量産するハメになっている。その結果がTikTokYouTubeのショートに典型的な、虚無的ファストカルチャーだ。作り手にも余裕が無いし、受け手にも余裕が無い。常に仕事に追われて疲弊しているからだ。漫画は最初の1ページの内に目を引くようなオチを作らなければならず、アニメは第1話で世界観の説明から派手なアクションまでを収めなければならなくなっている。ちょっと表象文化を見るだけでも、我々の文化がいまどれほど貧弱化しているかが分かるだろう*3

 (後期)資本主義社会では、我々の文化への深い感受性が奪われ続ける。これに対して『人新世の「資本論」』が提示する社会モデルは、この感受性を取り戻すための土台なのだ。反資本主義・脱成長・生活デザインは、我々の豊かな精神性のための思想的インフラなのである。

 

 

脱成長主義への反論に答える

 このことを理解していない様々な論客が、ほとんど藁人形論法のような仕方で脱成長主義を攻撃している。つまり、脱成長主義をただの「資本主義をぶっこわせ!ソ連や中国になれ!」という立場へと曲解して攻撃しているのである。いない人を攻撃しても仕方あるまい。

柿埜真吾『自由と成長の経済学』

 例えば柿埜真吾の『自由と成長の経済学』*4がそうだ。同書は基本的に「脱成長で気候危機を防ごうとする人たちのお気持ちは分かるけど事実はそうじゃない」というスタンスを貫いているが、実際のところはその「事実ベース」が全く根拠薄弱で、『人新世の「資本論」』に対する批判には全くなっていない。

  • 柿埜は1990年以降の感染症死亡率や1920年代以降の気象災害死亡数の現象を単純に「資本主義と経済成長のおかげ」と見做しているが、その根拠は何なのか?20世紀以降に進歩したのが「資本主義」だけではないのは当然だ。
  • 柿埜はアグリビジネスによる感染症の増加と、ブルシットジョブの増加という論点に全く答えていない。
  • 柿埜はGDP絶対量の上昇だけで資本主義の成功ということを言っており(153頁)、そもそもGDPがあてになる指標ではないという常識的論点や、そもそもGDPには計上されえない価値基準を問題にしている斎藤への反論にはなっていない。(ブルシットジョブの論点がすっぽり抜け落ちているのはここ)
  • そして仮にこれらが全て過去の経済成長の恩恵だったとしても、これからの未来に経済成長を続けていかなければならないのかは別問題だ。著作全体を通して、柿埜は斎藤に正面から反論しているというより、《過去の社会的発展の悪口を言われたからそれに言い返している》という感が強い*5
  • 極端な温暖化終末論を避けるべきだというのはその通りだが、「このまま気温が上昇しても我々の文明に大きな被害は無い」という主張(157頁以下)は、グローバルサウスとそれに依存した先進国という事実を完全に無視した、典型的な帝国主義的言説である。(ここでも柿埜はGDPの数字しか見ていない)
  • 柿埜は「そもそも市場経済は自発的取引であり、自分が損するような取引は誰もしない」と言っている(62頁)が、いったい現代において「市場経済は自由だ」などと大真面目な顔で言える人がいるのだろうか。後期資本主義、ポスト・フォーディズムの社会とは、全く必要でないものをあたかも必要であるかのように思わせる「需要の生産」(セイの法則)が基調である。消費者は、企業によって欲望を植え付けられ、持続不可能な消費へ駆り立てられているのである。
  • ところで、なぜ気象災害死亡数のグラフ(22頁)に1970年インドで発生したボーラ・サイクロンが計上されていないのだろうか?この近代史上最悪の自然災害によって、最低でも20万5000人、最高で50万人が死亡している。まさか、「事実ベース」の理論書がデータをないがしろにしていいはずはあるまい。

 

 遠慮なしに言えば柿埜のこの本は、ただ経済成長路線を相対化する可能性について思考することが面倒な人たちを安心させるためのイデオロギー装置という価値しか持っていない。

 

中野剛志「脱成長は経済成長をもたらす」

これに比べれば、中野剛志の「脱成長は逆説的に経済成長をもたらす」という批判の方が一考に値する。

何が言いたいかと言うと、経済成長を脱したいのであれば、新自由主義政策を実行すれば手っ取り早いということですよ(笑)。経済成長だけを追求するのはおかしいとか、幸福や公正など金銭的利益以外の価値を大事にする政策をとるべきだといった脱成長論者の議論は、それはそれで正しいと思いますが、しかし、そういう政策をとると、おそらく経済は成長します(笑)。でも、経済成長は彼らの望むところではないわけでしょう。自分たちが目指しているものと逆の結果をもたらす政策を追求してどうするのか。

toyokeizai.net

 これは一見するところ、脱成長主義者たちを揶揄しているようだが、よく読めばわかるように、中野の主張は(少なくとも私の支持する)脱成長主義への拒絶ではない。

というのも、中野が言わんとしているのは「経済成長は結果であって、それ自体を目指せば(=新自由主義政策をとれば)かえって経済は停滞する」ということだからだ。これは例えば、受験競争の罠を考えて見ればわかることだ。テストの点数が上がるのは、あくまでじっくり勉強に取り組んだ結果であって、逆に、大学入試の点数を稼ぐことを目的とするだけの勉強は、全く身にならず、全く教養も身につかず、アダルトチルドレンを輩出するだけである。一言で言えば、本末転倒ということだ。

 実際、中野が注意を向けるのも、現代日本における大学のあり方だ。大学はそもそも自由と寛容の中で、一見無駄とも思えるような研究に夢中になるための場所であり、その結果、信じられないようなイノベーションノーベル賞が出てくるのである。このことを理解せずに、今日では短期で目に見える結果を報告できるような研究ばかりが支援されるようになり、大学から創造性が奪われている。日本政府は今、自分で自分の首を絞めている状態なのだ。

 この《経済成長を目的化すると経済が停滞し、経済成長以外のことに注力するとかえって経済が成長する》という仕組みを、弁証法的経済成長と呼ぶことにしよう。これは結局のところ、私の思い描く脱成長主義と一致する。だってそうだろう。経済が潤うならそれはいいことだ。だが経済成長を目的化することによって環境破壊や貧困問題や精神疾患や文化の衰退という問題が噴出しているならば、経済成長を目的化することなどやめて、それらの問題に一つ一つ正面から対処するべきだ。その結果、まわりまわって経済が潤うというのなら、大歓迎じゃないか。

 

結論。こちら↓の動画で明確に指摘されているように、脱成長主義というマクロなブランディングと、ミクロで個別具体的な政策の検証の、両方が必要だ。脱成長は《我々は何を目指すべきか?》を巡る問題であって、《それをいかに実現するか?》という問題とは位相が違う。だから本来、後者の議論が前者の脱成長主義を反駁することはあり得ないのであって、それは議論が嚙み合っていないというものだ*6

グダグダな環境政策議論を突破する - YouTube

 

 

れいわ新選組についての研究

 これまで私は日本の政治や選挙に希望を見出せていなかった。自動的に、政治に無関心にもなった。しかし今は、脱成長主義こそが我々一人一人の生活を守り、絶望や虚無の克服の道をも開くように思われる。私の本職は哲学思想研究だが、絶望との戦いは、個人の内面だけで行われるものではない。そこには新たな思考を開いてくれるような社会的インフラも無ければならない。脱成長主義的政治こそがその役割を果たす。

 

そこで、今現在の日本の政党で最もこの路線に近いのはどれだろうかと最近考えている。これまで勉強不足だった分、必死で追いつこうとしている。

例えば、斎藤幸平は2021年10月に社会民主党党首福島みずほと対談している。

「人新世の資本論ー社会をどう変えていくか」〈福島みずほ×斎藤幸平〉 - YouTube

 

他方で、れいわ新選組の極めて市民主導的なポリシーも近い理念であるような気がする。山本太郎が初登場したとき、「消費税廃止なんて正気か?」なんて思った記憶があるが、逆進性などの問題を考えれば、不況に対する財政出動、富の再分配だ。原発も即刻廃止で、平和主義の矜持と環境問題をしっかり意識している。おまけに大学院まで教育無償化ときている。もし本当にそれが実現できるなら、新自由主義経済でズタボロになった我々の生活は保護され、失われた文化と精神の潤沢さも回復するだろう。

政府のために人民がいるのではない。人民のために政府があるのだ。当然のことだ。

 

そこで、冒頭の引用だ。

 

れいわ新選組は、「左派ポピュリズム」等々の不当な評価を世の中から受けている〔……〕れいわ新選組こそが本当の保守(古谷経衡)

 

 古谷経衡。討論系のテレビ番組でちょくちょく見かけてはいたが、正直これまであまり知らなかった。しかしどうやら右翼・保守の政治評論家・作家ということだ。注意しなければならないのは、この「右翼・保守」をいわゆる胡散臭い「天皇陛下万歳」みたいな、あるいは「安倍晋三万歳」みたいなイメージで理解してはいけないということだ。少なくとも古谷に言わせれば、そういうのはエセ保守であって、真の保守、保守本流ではない*7

 保守」の本当の意味は、まさしく我々の生活、暮らし、文化、伝統を守るということだ。そう考えるならば、一般的には「左翼」のイメージがついているれいわ新選組こそは、実は本当の意味での保守なのだ(つまるところ中道なのだ)というのが古谷の評価だ。

 

文化と伝統を守る脱成長

 古谷のこのスタンスはたまたま、私の脱成長主義への想いと重なった。つまり、斎藤幸平は意識的に「ジェネレーション・レフト」ということを言って、Z世代などの左派世代に呼びかけている*8が、しかし私の気持ちとしては「左翼と言うなら左翼でもいいが、しかし結局は脱成長主義こそが中産市民や労働者階級の生活を救い、伝統文化も守り、男性の尊厳女性の尊厳も、多様なアイデンティティの尊厳も守るのではないか?」というところだった。だから私が本ブログを始めたのも、通常は「保守」とか「右翼」と呼ばれがちな人々にこそ、脱成長主義の真価を理解してほしい、というモチベーションからだったのだ。

 脱成長と聞くと、なんだか最近流行りのいわゆる「フェミニズム*9やチルアウトに迎合して軟弱化しようとしてるのか?と思われるかもしれないが、そうではない。むしろ真逆である。男性の尊厳が大切な人と生活を守るために闘うことであるならば、まさに脱成長主義こそがその闘いだ。資本主義=労働主義は「男らしさ」でもなんでもない。結局そこでは男性はひたすら燃料として搾取されて、家庭を大事にする余裕も全て奪われている。その結果の一つが、父親の不在だ。父親の機能が欠けた家庭では、子供は創造性を育むことができずに惰弱と無気力へ流れていく。いわゆる「男子劣化社会」だ。(まぁこの本はあまり面白くないけど。)

www.shobunsha.co.jp

 

人間が市場原理に搾り取られるシステムを放置した結果、今では共働き時代に突入している。父親も居なければ、母親も居ないというわけだ。

楽な生活を追求する両親は子供のあらゆる要求に応えるようになり、こうしてまた子供の要求はますます横暴になっていくということが、すぐにお馴染みのパターンとなる。〔……〕これは、一部には、両親がますます共働きを要求されることの結果だ。つまりこうした状況で、親子が一緒に過ごせる時間が少ないのであれば、親はしばしば子供のしつけという「抑圧的」な役割を拒否しがちになる。(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』邦訳178頁)

info1103.stores.jp

「女が社会進出したのが諸悪の根源だ」と言ったところで、何がどうなるというのか?そりゃ、資本主義システムのせいで家庭も崩壊の危機に晒されているなら、「家を守る女」も黙っているわけがなかろう。我々に必要なのは女を叩くことではない。社会システムを変えることだ。

 

 

本当の保守とは、現行の政府のやり方に黙って従っていくしかない、という悲観主義ではない。「自分の周りの生活の幸せが守れるならそれでいい」と思うかもしれないが、まさにその「身の回りの生活」こそが資本主義システムによって破壊され続けているのだ

だから、「保守」論客の中島岳志と斎藤幸平の対談では、「脱成長コミュニズムって保守じゃん!」という結論になるのだ。

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れいわの政策と脱成長主義

 とはいえ、れいわ新選組と言っても一枚岩ではないのだから、私とて古谷を支持していると即座に明言できるわけではない。例えば古谷は原発対策にあまり積極的でない。他方、山本はエネルギー政策に関しては「グリーン・ニューディール」と言い、外交に関しては徹底平和路線 + 経済成長で取り組もうとしている。これだけを見ると、グリーン・ニューディールを正面から批判している斎藤の立場とは合わないようにも思われるが、やはり原発廃止という一手は大きいし、「季節ごとに1人当たり10万円の給付」という大胆な財政出動は、一気に脱成長路線へ近づくようにも思われる。山本は「別にすぐ使わなくてもいい」と言っており、見据えられている「経済成長」もあくまで結果としてであって、短絡的な目的ではないことが伺われる。

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 あとは、原発を廃止して国内で再エネ発電を勃興させて、国際エネルギー市場に乗り出すとしても、やっぱりそこでメガソーラーによる自然破壊などの本末転倒が起きてはいけないと思う。この点さえ押さえれば、現在のれいわ新選組は限りなく脱成長主義に近い、というのが私の理解だ*10

※ちなみに、今まさに行われている「れいわ代表選挙」の候補者について言えば、なんとなく大石&くしぶち共同代表が望ましいような感がある。質疑応答でやはり具体性に富んだ信頼性のある回答をできたのは実経験のある山本、大石&くしぶち。古谷の存在は思想的波及力として極めて重要だから、言論部として頑張ってほしい。山本もいいけど、やはり「ちょっと休ませてあげよう」みたいなのも分かる気がする。

 

 

 とはいえ、最初に述べたように、私はまだまだ国内の政治に疎い。社会民主党立憲民主党の良し悪しなども具体的に調べなければいけないし、こと政治に関しては悪質な情報に惑わされないよう見極めなければいけない。

 

しかしいずれにしても、何度も言うに越したことはないが、私は脱成長したいから脱成長主義者なのではない。ましてや、脱成長主義者だから脱成長を訴えているのでもない。我々の生活を守るための脱成長なのだ。

 

 

暮しを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値するのである。(花森安治

 

 

 

*1:たとえばこちらの水野和夫との対談。

toyokeizai.net

ほかにも、YouTubeで閲覧できる諸々の対談動画も参照。

*2:ただし、私は単に「労働は悪だ。労働がなくなれば人は幸せになれる」などと考えてはいない。これはニック・スルニチェクなどの加速主義論者が持っている素朴な考え方でしかない。彼らはAIなどの技術革新によって人間が労働から解放されればよいと考えており、しかも「労働倫理なんてクソだ」と考えているわけだが、私はそうは思わない。少なくとも、やりがいのある労働とやりがいのない労働を区別しなければならない。後者はブルシット・ジョブ(何の役にも立たない仕事)ないしシット・ジョブ(劣悪な労働条件)だが、前者は芸術であり、道徳である。

*3:後で触れる柿埜は脱成長コミュニズムの方が芸術が弾圧されると述べている(柿埜192-196頁)が、これは斎藤の議論に対するありがちな誤解だと思う。芸術はある意味で「無駄」だが、しかしそれはブルシットとは真逆の意味で無駄なのだということに関しては、次の本に収録されている大澤真幸の論文を参照。

sayusha.com

*4:こちらの動画でも簡単に紹介されている。

https://www.youtube.com/watch?v=f6YjfW3EGWI

*5:例えば柿埜は「斎藤氏は、温暖化を阻止するためには生活レベルを1970年代後半のレベルまで落とすだけで十分であるという」(166頁)と言い、1970年代後半の生活水準がいかに厳しいものであったかを語るのだが、斎藤の元の文章は随分と調子が異なる。「〔緑の経済成長路線は〕要するに気候変動はもう止められないということを前提とした対処方法でしかない。まだ可能性があるにもかかわらず諦めるのは、早すぎないだろうか。まず、やれることは、全力ですべてやりきるべきではないか。その際の変化の目安としてしばしばいわれるのは、生活の規模を一九七〇年代後半のレベルにまで落とすことである」(斎藤幸平『人新世の「資本論」』98頁)。この目安はナオミ・クラインによって提示されたものであり、斎藤は1970年代のライフスタイルに帰ることが理想郷だなどとはどこでも主張していない。

*6:既に述べたが、『人新世の「資本論」』の最大の価値は思想的価値である。この点は重大だ。例えば柿埜の186-188頁に見られる誤解は典型的なものである。自由や幸福の「再定義」という現象を、「洗脳」や「弾圧」とは違うものとして理解するには、本の思想的価値(=テーゼの確定ではなく、呼びかけとしての価値)を受けとることにある程度慣れていなければ難しい。しかしその感受性はゆっくりと身に付けていくことができる。

*7:具体的に言えば、いわゆる安倍派とは自民党内部派閥の「清和会」のことで、これと別の「経世会平成研究会)」こそが古き良き自民党保守本流ということらしい。こちらのインタビュー動画を参照。

https://youtu.be/Zx7o19i2Ajw

*8:YouTubeで見れるものとしてはこれが一番詳しい。

[動画配信]インターネット講座/斎藤幸平(大阪市立大学大学院経済学研究科准教授) - YouTube

*9:世間やネット界隈で一般的に抱かれている「フェミニズム」の悪いイメージと、私がアカデミズム界隈で馴染んでいるフェミニズムの深い世界とは大きく乖離している。

*10:2022年12月13日の「れいわ代表選挙ツアー」ライブ配信を視聴して知ったが、愛知では無所属から尾形慶子さんが県知事選に出馬するそうだ。気候危機対策をはじめ、れいわ新選組と多く重なる政治方針として、山本から推薦されているらしい。

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