反資本主義・生活デザイン課

やりがいのない仕事を逃れ、芸術的に生きるための知と実践。

それ、本当に国産ですか?

 

 こんにちは、反資本主義・生活デザイン課の風見好日(カザミ コウジツ)です。最近、キッチンで戦争を憂いています。

 

皆さんはしっかりと食品の産地を気遣っていますか?「食べられれれば何でもいい」と思っていたら、大間違いですよ。

 例えば、あなたの食べているものが、大企業の指揮下で、低賃金で、子供たちの過酷な労働によって生み出されているとしたら? 品質や収穫量を無理やり一定にキープするために、農薬や土地開発によって土壌・環境・景観・町村の文化を破壊し続けているとしたら? 労働者たちが過労によって心身を壊し続けているとしたら? そうやって大量生産された食品が、余ればすぐに廃棄されて、環境を汚染するだけでなく、貧しく物を食べられない人たちを無意味に見殺しにしているとしたら?

 私たちの日々の生活、たとえば《何をどのように食べるか?》ということも、一つのれっきとした倫理なのです。

 

そういう意味で、「トレーサビリティ」が大事なのです。つまり、自分の手元に届いている商品が、どこから生まれて、どのような経路でやってきたのかが分かるということ。私たち一人ひとりがチェックして判断しなければなりません。企業や政府に丸投げして安心できる世の中は残念ながらとっくに終わっており——企業が利潤追求を至上命題として好き放題にやること、それが資本主義です——、その結果、世界中で飢餓は拡大し、先進国ではどんどん食品が無駄に余るようになっています。

www.kinokuniya.co.jp

 

 

 

どうして国産が大事なのか?

 その観点から、とりわけ今の日本で重要なポイントの一つが、国産、あるいは地産地消。これがどうして、上のような倫理的課題と関係するのでしょうか。

  • 輸入品では、生産者-仲介業者-商社-輸送業者-小売業者という風に、間に挟まる業者が一気に増える。この状態で末端価格を一定にすれば、生産者の収入は極端に小さくなる。また、各業者や消費者と生産者の間のコミュニケーションが無くなり、生産者の苦労や問題が伝わらなくなる。
  • 一部の地域に集中して大量生産が求められた結果、アフリカの焼畑農業のように、土地の破壊やCO2、有害物質の問題が発生している。
  • 輸送距離が延びれば延びるほど、排気ガスに加え、保存のための薬品や冷房設備といった環境リスクが高まる。
  • 例えばニンジン一つとっても西洋ニンジンや金時人参があるように、食材は土地とその文化に紐づいている。どの土地の食材を選ぶか、はどの地域の文化を振興するか、ということと同じ。

 

単純に、国産のものや自分が住んでいる地域の食材を選べば、これだけ様々なリスクを避けることができるのです。

 もちろん、例えばコーヒーなど、輸出品を購入することで生産者たちを応援することに繋がる場合もあります。しかしそれも、完全に業者次第であって、劣悪な条件で買い取っている業者もあるでしょうし、大量生産を無理強いしている業者もあるでしょう。自分が購入している輸入品が、ちゃんと人を幸せにしているのか?人を泣かせてはいないか?は自分で調べて判断しなければなりません。

 

食料自給率38%の国、日本

 また、もっとよく知られている問題として、最近の値上がりの問題があるでしょう。例えば小麦。日本はこれをロシア等からの輸入にかなり頼ってきました。ロシア-ウクライナ戦争が長引く中で、近所のスーパーでも小麦製品が露骨に値上がりしたり、そもそも商品が消えたりしているのが分かります。(僕が気に入っていたシリアルが全く並ばなくなって悲しいです。)例えば日清のカップヌードルなんかはおもむろに値上がりしましたが、これは日清がアメリカのカーギルという商社を通じて小麦を仕入れていることとも関係しているでしょう。

 そもそも日本の食料自給率は38%。カナダ266%、オーストラリア200%、アメリカ132%、フランス125%という中で、圧倒的な低さを誇ります。つまり、日本は国産の食材で日本人を養っておらず、めちゃくちゃ外国からの輸入に頼っているということであり、日本の農業はかなり弱いということです。

www.maff.go.jp

 その結果の一つが、日本の農林漁業者の自殺率急上昇です。酪農家が話題に上っていますね。輸入に大きく依存していた飼料の価格が高騰し、牛乳販売による収入が激減、子牛も買い手がつかず大赤字という事態。政府はしゃもじ外交とか言って戦争に加担しながらミサイル買いまくってる場合ではなく、一刻も早い停戦と平和外交をやりつつ、国内産業の支援をしていくべきだと思うんですけどね。

www.jacom.or.jp

shanti-phula.net

 

 

「国産」と「国内製造」

 さて、日本の食料自給率を上げることの重要性を見たところで、早速スーパーで食材を買いに行きましょう。朝食用に食パンを買うとして、夜食や間食のためにうどんもあるといいですね。

 そこで成分表示を見てみましょう。実は2017年より、全ての加工食品について、原産地の表示が義務付けられるようになりました。なので、パッケージやその裏面の成分表示を注意深く読めば、自分が購入する商品がどこからやってきたものなのかを知ることができるのです(消費者庁パンフレット)。しかしこのとき、ややっこしいところがあるのでアドバイスを少し。

 

①まず、「小麦粉(国内製造)」と表記されていたら要注意です。鋭い方は気付かれるかもしれませんが、これは「小麦(国産)」とは意味が異なります。つまり、たとえ小麦が国産ではなく、アメリカ産であっても、それを加工して製粉した工場が国内であれば、「小麦粉(国内製造)」と表記されるわけです。

②次に、「小麦(国産)」であっても、これは必ずしも100%国産小麦からなっていることを意味しません。表示ルール上、成分のうち最も多く使われている原料の産地を書けばよいことになっているのです。従って、「小麦(国産)」と書いてあっても、成分の中にアメリカ産の小麦が入っている可能性は残ります。ただ、もしその場合はパッケージに「国産小麦100%」や単に「国産小麦」(パーセント表示なし)と表記することはできないらしいので、最終的にはこの点で判断できるかもしれません。もちろん、必ずしも100%にこだわらなければいけないということでもないのですが。

  • 「小麦(国産)」 → 国産小麦が100%、あるいは最も多く使われている
  • 「小麦粉(国内製造)」 → 国産小麦が使われているかは不明
  • パッケージに「国産小麦100%」 → 国産小麦100%

faq.pasconet.co.jp

 

 

ということで、資本主義システムが地球上の人々を理不尽の中に巻き込んでいく中で、自分が納得のできる生活を送るために、納得のできる食材を購入すること。そのときの参考にしてみてください。

脱成長こそが真の保守である

「れいわ新選組は、「左派ポピュリズム」等々の不当な評価を世の中から受けている〔……〕れいわ新選組こそが本当の保守」(古谷経衡)

※2022年12月8日 れいわ新選組 記者会見にて

youtu.be

 

(普段は親しみやすいようにと敬体で書いていますが、今回のように理論的性格の強いものに関しては、私が書きなれている常体で書きたいと思います。)

 

 

 

 本ブログは「反資本主義」を掲げているが、より詳しく言えば、脱成長主義である。

脱成長主義とは、経済成長(GDPの上昇等)を至上命題とした政治に対する否である。誤解してはならないのは、これは「もう経済成長なんてできないよ」とか「経済成長なんて諦めようよ」という悲観主義ではない、ということだ。

そうではなくむしろ、「経済成長を直接目的とするのではない政治へ方向転換することで、私たちの生活はもっと豊かになる」という希望なのだ。

 

 

斎藤幸平『人新世の「資本論」』

そしてもう一つ、特に私の個人的な見解について言えば、脱成長主義は利他主義ではない。むしろ私たち一人ひとりが適当にダラダラ過ごせる快適な生活を作りだすための、めちゃくちゃ都合がいい話なのだ。

 脱成長主義のバイブルの一つとなった斎藤幸平『人新世の「資本論」』では、脱成長こそが環境にやさしい生き方をもたらし、気候危機を防ぐことができる、と語られている。そう聞くとなんだか環境のことを思いやり、諸外国の人々や未来の子供たちのことを思いやる利他主義のように思えてくるが、そうではない。

shinsho.shueisha.co.jp

 同書をよく読めばわかることだが、私が脱成長主義で最も面白いと思うのは、経済成長を目的化するのをやめて、環境に無理強いしない生活をすることで、結果的に、私たちは無駄な労役や金の乱費から解放されて、めちゃくちゃ贅沢な生活をすることができるということだ。実際、斎藤は多くの対談の中で、「週25時間労働、いや週15時間労働」ということを語っている*1

 みんな、今の自分の労働時間を振り返ってみてほしい。週15時間ということは、単純に平均しても平日各3時間だけの労働。あるいは週休を3日、4日と増やすこともできる。その自由な時間は全部自分の好きにしていいのだ。惰眠を貪ってもいいし、労働が少なくなって体力も余っている分、趣味のスポーツや読書、芸術活動に精を出すこともできる*2

 

 だがこれは当たり前のことなのだ。だって、人は本来、必要な仕事を必要なときにやればいいだけなのであって、今日一日を食いつなぐために過労死寸前まで賃金労働しなければいけないいわれは無いはずなのだ。少なくとも、そんなことしなくても生活していけるだけの技術力がある現代ならば。『人新世の「資本論」』が言おうとしているのは、「技術も生産力も十分すぎるくらい揃っているのだから、あとはそれをちゃんと人々に行き渡るように使えばいいだけなんだ」ということだ。現在、アメリカを初めとする「先進国」では肥満が増え、いわゆる「発展途上国」では飢餓が無くならない。食料は死ぬほど余っているのに、それは分配されないまま大量廃棄されている。素直に考えて、これは非合理極まりないのではないか?

www.hanmoto.com

 

 そして、言うまでもないことだが、我々の生活を守るということは、我々の文化を守るということだ。想像してほしい。いま日本で、いや世界中で、一体どれだけのクリエイターが魂を売ることを強いられているのか。本当は自分が納得のいくものを作りたい。しかし日銭を賄うので精一杯で、物を作る時間も体力も精神的余裕も奪われてしまう。あるいは、「売れる作品を作らなきゃ」という強迫観念に囚われ、誰でも一瞬で消費できるような、全く深みのないものを量産するハメになっている。その結果がTikTokYouTubeのショートに典型的な、虚無的ファストカルチャーだ。作り手にも余裕が無いし、受け手にも余裕が無い。常に仕事に追われて疲弊しているからだ。漫画は最初の1ページの内に目を引くようなオチを作らなければならず、アニメは第1話で世界観の説明から派手なアクションまでを収めなければならなくなっている。ちょっと表象文化を見るだけでも、我々の文化がいまどれほど貧弱化しているかが分かるだろう*3

 (後期)資本主義社会では、我々の文化への深い感受性が奪われ続ける。これに対して『人新世の「資本論」』が提示する社会モデルは、この感受性を取り戻すための土台なのだ。反資本主義・脱成長・生活デザインは、我々の豊かな精神性のための思想的インフラなのである。

 

 

脱成長主義への反論に答える

 このことを理解していない様々な論客が、ほとんど藁人形論法のような仕方で脱成長主義を攻撃している。つまり、脱成長主義をただの「資本主義をぶっこわせ!ソ連や中国になれ!」という立場へと曲解して攻撃しているのである。いない人を攻撃しても仕方あるまい。

柿埜真吾『自由と成長の経済学』

 例えば柿埜真吾の『自由と成長の経済学』*4がそうだ。同書は基本的に「脱成長で気候危機を防ごうとする人たちのお気持ちは分かるけど事実はそうじゃない」というスタンスを貫いているが、実際のところはその「事実ベース」が全く根拠薄弱で、『人新世の「資本論」』に対する批判には全くなっていない。

  • 柿埜は1990年以降の感染症死亡率や1920年代以降の気象災害死亡数の現象を単純に「資本主義と経済成長のおかげ」と見做しているが、その根拠は何なのか?20世紀以降に進歩したのが「資本主義」だけではないのは当然だ。
  • 柿埜はアグリビジネスによる感染症の増加と、ブルシットジョブの増加という論点に全く答えていない。
  • 柿埜はGDP絶対量の上昇だけで資本主義の成功ということを言っており(153頁)、そもそもGDPがあてになる指標ではないという常識的論点や、そもそもGDPには計上されえない価値基準を問題にしている斎藤への反論にはなっていない。(ブルシットジョブの論点がすっぽり抜け落ちているのはここ)
  • そして仮にこれらが全て過去の経済成長の恩恵だったとしても、これからの未来に経済成長を続けていかなければならないのかは別問題だ。著作全体を通して、柿埜は斎藤に正面から反論しているというより、《過去の社会的発展の悪口を言われたからそれに言い返している》という感が強い*5
  • 極端な温暖化終末論を避けるべきだというのはその通りだが、「このまま気温が上昇しても我々の文明に大きな被害は無い」という主張(157頁以下)は、グローバルサウスとそれに依存した先進国という事実を完全に無視した、典型的な帝国主義的言説である。(ここでも柿埜はGDPの数字しか見ていない)
  • 柿埜は「そもそも市場経済は自発的取引であり、自分が損するような取引は誰もしない」と言っている(62頁)が、いったい現代において「市場経済は自由だ」などと大真面目な顔で言える人がいるのだろうか。後期資本主義、ポスト・フォーディズムの社会とは、全く必要でないものをあたかも必要であるかのように思わせる「需要の生産」(セイの法則)が基調である。消費者は、企業によって欲望を植え付けられ、持続不可能な消費へ駆り立てられているのである。
  • ところで、なぜ気象災害死亡数のグラフ(22頁)に1970年インドで発生したボーラ・サイクロンが計上されていないのだろうか?この近代史上最悪の自然災害によって、最低でも20万5000人、最高で50万人が死亡している。まさか、「事実ベース」の理論書がデータをないがしろにしていいはずはあるまい。

 

 遠慮なしに言えば柿埜のこの本は、ただ経済成長路線を相対化する可能性について思考することが面倒な人たちを安心させるためのイデオロギー装置という価値しか持っていない。

 

中野剛志「脱成長は経済成長をもたらす」

これに比べれば、中野剛志の「脱成長は逆説的に経済成長をもたらす」という批判の方が一考に値する。

何が言いたいかと言うと、経済成長を脱したいのであれば、新自由主義政策を実行すれば手っ取り早いということですよ(笑)。経済成長だけを追求するのはおかしいとか、幸福や公正など金銭的利益以外の価値を大事にする政策をとるべきだといった脱成長論者の議論は、それはそれで正しいと思いますが、しかし、そういう政策をとると、おそらく経済は成長します(笑)。でも、経済成長は彼らの望むところではないわけでしょう。自分たちが目指しているものと逆の結果をもたらす政策を追求してどうするのか。

toyokeizai.net

 これは一見するところ、脱成長主義者たちを揶揄しているようだが、よく読めばわかるように、中野の主張は(少なくとも私の支持する)脱成長主義への拒絶ではない。

というのも、中野が言わんとしているのは「経済成長は結果であって、それ自体を目指せば(=新自由主義政策をとれば)かえって経済は停滞する」ということだからだ。これは例えば、受験競争の罠を考えて見ればわかることだ。テストの点数が上がるのは、あくまでじっくり勉強に取り組んだ結果であって、逆に、大学入試の点数を稼ぐことを目的とするだけの勉強は、全く身にならず、全く教養も身につかず、アダルトチルドレンを輩出するだけである。一言で言えば、本末転倒ということだ。

 実際、中野が注意を向けるのも、現代日本における大学のあり方だ。大学はそもそも自由と寛容の中で、一見無駄とも思えるような研究に夢中になるための場所であり、その結果、信じられないようなイノベーションノーベル賞が出てくるのである。このことを理解せずに、今日では短期で目に見える結果を報告できるような研究ばかりが支援されるようになり、大学から創造性が奪われている。日本政府は今、自分で自分の首を絞めている状態なのだ。

 この《経済成長を目的化すると経済が停滞し、経済成長以外のことに注力するとかえって経済が成長する》という仕組みを、弁証法的経済成長と呼ぶことにしよう。これは結局のところ、私の思い描く脱成長主義と一致する。だってそうだろう。経済が潤うならそれはいいことだ。だが経済成長を目的化することによって環境破壊や貧困問題や精神疾患や文化の衰退という問題が噴出しているならば、経済成長を目的化することなどやめて、それらの問題に一つ一つ正面から対処するべきだ。その結果、まわりまわって経済が潤うというのなら、大歓迎じゃないか。

 

結論。こちら↓の動画で明確に指摘されているように、脱成長主義というマクロなブランディングと、ミクロで個別具体的な政策の検証の、両方が必要だ。脱成長は《我々は何を目指すべきか?》を巡る問題であって、《それをいかに実現するか?》という問題とは位相が違う。だから本来、後者の議論が前者の脱成長主義を反駁することはあり得ないのであって、それは議論が嚙み合っていないというものだ*6

グダグダな環境政策議論を突破する - YouTube

 

 

れいわ新選組についての研究

 これまで私は日本の政治や選挙に希望を見出せていなかった。自動的に、政治に無関心にもなった。しかし今は、脱成長主義こそが我々一人一人の生活を守り、絶望や虚無の克服の道をも開くように思われる。私の本職は哲学思想研究だが、絶望との戦いは、個人の内面だけで行われるものではない。そこには新たな思考を開いてくれるような社会的インフラも無ければならない。脱成長主義的政治こそがその役割を果たす。

 

そこで、今現在の日本の政党で最もこの路線に近いのはどれだろうかと最近考えている。これまで勉強不足だった分、必死で追いつこうとしている。

例えば、斎藤幸平は2021年10月に社会民主党党首福島みずほと対談している。

「人新世の資本論ー社会をどう変えていくか」〈福島みずほ×斎藤幸平〉 - YouTube

 

他方で、れいわ新選組の極めて市民主導的なポリシーも近い理念であるような気がする。山本太郎が初登場したとき、「消費税廃止なんて正気か?」なんて思った記憶があるが、逆進性などの問題を考えれば、不況に対する財政出動、富の再分配だ。原発も即刻廃止で、平和主義の矜持と環境問題をしっかり意識している。おまけに大学院まで教育無償化ときている。もし本当にそれが実現できるなら、新自由主義経済でズタボロになった我々の生活は保護され、失われた文化と精神の潤沢さも回復するだろう。

政府のために人民がいるのではない。人民のために政府があるのだ。当然のことだ。

 

そこで、冒頭の引用だ。

 

れいわ新選組は、「左派ポピュリズム」等々の不当な評価を世の中から受けている〔……〕れいわ新選組こそが本当の保守(古谷経衡)

 

 古谷経衡。討論系のテレビ番組でちょくちょく見かけてはいたが、正直これまであまり知らなかった。しかしどうやら右翼・保守の政治評論家・作家ということだ。注意しなければならないのは、この「右翼・保守」をいわゆる胡散臭い「天皇陛下万歳」みたいな、あるいは「安倍晋三万歳」みたいなイメージで理解してはいけないということだ。少なくとも古谷に言わせれば、そういうのはエセ保守であって、真の保守、保守本流ではない*7

 保守」の本当の意味は、まさしく我々の生活、暮らし、文化、伝統を守るということだ。そう考えるならば、一般的には「左翼」のイメージがついているれいわ新選組こそは、実は本当の意味での保守なのだ(つまるところ中道なのだ)というのが古谷の評価だ。

 

文化と伝統を守る脱成長

 古谷のこのスタンスはたまたま、私の脱成長主義への想いと重なった。つまり、斎藤幸平は意識的に「ジェネレーション・レフト」ということを言って、Z世代などの左派世代に呼びかけている*8が、しかし私の気持ちとしては「左翼と言うなら左翼でもいいが、しかし結局は脱成長主義こそが中産市民や労働者階級の生活を救い、伝統文化も守り、男性の尊厳女性の尊厳も、多様なアイデンティティの尊厳も守るのではないか?」というところだった。だから私が本ブログを始めたのも、通常は「保守」とか「右翼」と呼ばれがちな人々にこそ、脱成長主義の真価を理解してほしい、というモチベーションからだったのだ。

 脱成長と聞くと、なんだか最近流行りのいわゆる「フェミニズム*9やチルアウトに迎合して軟弱化しようとしてるのか?と思われるかもしれないが、そうではない。むしろ真逆である。男性の尊厳が大切な人と生活を守るために闘うことであるならば、まさに脱成長主義こそがその闘いだ。資本主義=労働主義は「男らしさ」でもなんでもない。結局そこでは男性はひたすら燃料として搾取されて、家庭を大事にする余裕も全て奪われている。その結果の一つが、父親の不在だ。父親の機能が欠けた家庭では、子供は創造性を育むことができずに惰弱と無気力へ流れていく。いわゆる「男子劣化社会」だ。(まぁこの本はあまり面白くないけど。)

www.shobunsha.co.jp

 

人間が市場原理に搾り取られるシステムを放置した結果、今では共働き時代に突入している。父親も居なければ、母親も居ないというわけだ。

楽な生活を追求する両親は子供のあらゆる要求に応えるようになり、こうしてまた子供の要求はますます横暴になっていくということが、すぐにお馴染みのパターンとなる。〔……〕これは、一部には、両親がますます共働きを要求されることの結果だ。つまりこうした状況で、親子が一緒に過ごせる時間が少ないのであれば、親はしばしば子供のしつけという「抑圧的」な役割を拒否しがちになる。(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』邦訳178頁)

info1103.stores.jp

「女が社会進出したのが諸悪の根源だ」と言ったところで、何がどうなるというのか?そりゃ、資本主義システムのせいで家庭も崩壊の危機に晒されているなら、「家を守る女」も黙っているわけがなかろう。我々に必要なのは女を叩くことではない。社会システムを変えることだ。

 

 

本当の保守とは、現行の政府のやり方に黙って従っていくしかない、という悲観主義ではない。「自分の周りの生活の幸せが守れるならそれでいい」と思うかもしれないが、まさにその「身の回りの生活」こそが資本主義システムによって破壊され続けているのだ

だから、「保守」論客の中島岳志と斎藤幸平の対談では、「脱成長コミュニズムって保守じゃん!」という結論になるのだ。

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れいわの政策と脱成長主義

 とはいえ、れいわ新選組と言っても一枚岩ではないのだから、私とて古谷を支持していると即座に明言できるわけではない。例えば古谷は原発対策にあまり積極的でない。他方、山本はエネルギー政策に関しては「グリーン・ニューディール」と言い、外交に関しては徹底平和路線 + 経済成長で取り組もうとしている。これだけを見ると、グリーン・ニューディールを正面から批判している斎藤の立場とは合わないようにも思われるが、やはり原発廃止という一手は大きいし、「季節ごとに1人当たり10万円の給付」という大胆な財政出動は、一気に脱成長路線へ近づくようにも思われる。山本は「別にすぐ使わなくてもいい」と言っており、見据えられている「経済成長」もあくまで結果としてであって、短絡的な目的ではないことが伺われる。

youtu.be

 

 あとは、原発を廃止して国内で再エネ発電を勃興させて、国際エネルギー市場に乗り出すとしても、やっぱりそこでメガソーラーによる自然破壊などの本末転倒が起きてはいけないと思う。この点さえ押さえれば、現在のれいわ新選組は限りなく脱成長主義に近い、というのが私の理解だ*10

※ちなみに、今まさに行われている「れいわ代表選挙」の候補者について言えば、なんとなく大石&くしぶち共同代表が望ましいような感がある。質疑応答でやはり具体性に富んだ信頼性のある回答をできたのは実経験のある山本、大石&くしぶち。古谷の存在は思想的波及力として極めて重要だから、言論部として頑張ってほしい。山本もいいけど、やはり「ちょっと休ませてあげよう」みたいなのも分かる気がする。

 

 

 とはいえ、最初に述べたように、私はまだまだ国内の政治に疎い。社会民主党立憲民主党の良し悪しなども具体的に調べなければいけないし、こと政治に関しては悪質な情報に惑わされないよう見極めなければいけない。

 

しかしいずれにしても、何度も言うに越したことはないが、私は脱成長したいから脱成長主義者なのではない。ましてや、脱成長主義者だから脱成長を訴えているのでもない。我々の生活を守るための脱成長なのだ。

 

 

暮しを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値するのである。(花森安治

 

 

 

*1:たとえばこちらの水野和夫との対談。

toyokeizai.net

ほかにも、YouTubeで閲覧できる諸々の対談動画も参照。

*2:ただし、私は単に「労働は悪だ。労働がなくなれば人は幸せになれる」などと考えてはいない。これはニック・スルニチェクなどの加速主義論者が持っている素朴な考え方でしかない。彼らはAIなどの技術革新によって人間が労働から解放されればよいと考えており、しかも「労働倫理なんてクソだ」と考えているわけだが、私はそうは思わない。少なくとも、やりがいのある労働とやりがいのない労働を区別しなければならない。後者はブルシット・ジョブ(何の役にも立たない仕事)ないしシット・ジョブ(劣悪な労働条件)だが、前者は芸術であり、道徳である。

*3:後で触れる柿埜は脱成長コミュニズムの方が芸術が弾圧されると述べている(柿埜192-196頁)が、これは斎藤の議論に対するありがちな誤解だと思う。芸術はある意味で「無駄」だが、しかしそれはブルシットとは真逆の意味で無駄なのだということに関しては、次の本に収録されている大澤真幸の論文を参照。

sayusha.com

*4:こちらの動画でも簡単に紹介されている。

https://www.youtube.com/watch?v=f6YjfW3EGWI

*5:例えば柿埜は「斎藤氏は、温暖化を阻止するためには生活レベルを1970年代後半のレベルまで落とすだけで十分であるという」(166頁)と言い、1970年代後半の生活水準がいかに厳しいものであったかを語るのだが、斎藤の元の文章は随分と調子が異なる。「〔緑の経済成長路線は〕要するに気候変動はもう止められないということを前提とした対処方法でしかない。まだ可能性があるにもかかわらず諦めるのは、早すぎないだろうか。まず、やれることは、全力ですべてやりきるべきではないか。その際の変化の目安としてしばしばいわれるのは、生活の規模を一九七〇年代後半のレベルにまで落とすことである」(斎藤幸平『人新世の「資本論」』98頁)。この目安はナオミ・クラインによって提示されたものであり、斎藤は1970年代のライフスタイルに帰ることが理想郷だなどとはどこでも主張していない。

*6:既に述べたが、『人新世の「資本論」』の最大の価値は思想的価値である。この点は重大だ。例えば柿埜の186-188頁に見られる誤解は典型的なものである。自由や幸福の「再定義」という現象を、「洗脳」や「弾圧」とは違うものとして理解するには、本の思想的価値(=テーゼの確定ではなく、呼びかけとしての価値)を受けとることにある程度慣れていなければ難しい。しかしその感受性はゆっくりと身に付けていくことができる。

*7:具体的に言えば、いわゆる安倍派とは自民党内部派閥の「清和会」のことで、これと別の「経世会平成研究会)」こそが古き良き自民党保守本流ということらしい。こちらのインタビュー動画を参照。

https://youtu.be/Zx7o19i2Ajw

*8:YouTubeで見れるものとしてはこれが一番詳しい。

[動画配信]インターネット講座/斎藤幸平(大阪市立大学大学院経済学研究科准教授) - YouTube

*9:世間やネット界隈で一般的に抱かれている「フェミニズム」の悪いイメージと、私がアカデミズム界隈で馴染んでいるフェミニズムの深い世界とは大きく乖離している。

*10:2022年12月13日の「れいわ代表選挙ツアー」ライブ配信を視聴して知ったが、愛知では無所属から尾形慶子さんが県知事選に出馬するそうだ。気候危機対策をはじめ、れいわ新選組と多く重なる政治方針として、山本から推薦されているらしい。

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コーヒー好きがスーパーで野菜を買わなくなった話

 こんにちは、反資本主義・生活デザイン課の風見好日(カザミ コウジツ)です。料理ができません。小さい頃から家の料理も手伝わずにきたので、「煮立つ」って何?とか、「水 2カップ」って何のカップ??とか、そういうレベルです。

調理に1時間かけるとかも信じられなくて、少しでも調理時間を短縮して、残りの時間を仕事や趣味に使いたい...と思っているタイプです。

せいぜいがパスタ茹でて味付けするだけ、とか、チーズトーストとか。あとはひたすらフルグラで繋ぐ感じで。

 

 

 他方で、数年前からコーヒーを愛好していて、勢いでドリッパー、ソーサー、ミルを揃えちゃいました。最近はエチオピアのイルガチェフェにハマっています。紅茶みたいにキュッと透き通った香りがたまらないですよね。

 

料理には時間を割けないのですが、コーヒーを淹れるときはめっちゃ丁寧に時間を使うようになりました。ガリガリ豆を挽いているときや、ドリッパーで蒸らして粉が膨らんだときの香りを味わうのが幸せです。

こないだミルを掃除するための小さなブラシを買いまして、豆を挽いたあとのアフターケアというか、メンテナンスもするようになりました。こうやってちょっとずつ丁寧な手際がレベルアップしていくのが楽しいです。

豆を挽いたあと、中に残っているカスをこのブラシで取り除いています。

 

 それで、次に気になったのが、コーヒーフィルターの捨て方

一度でもコーヒーをハンドドリップで淹れたことのある人なら分かると思いますが、粉からコーヒーを抽出したあと、フィルターと一緒に用済みの粉を捨てなきゃいけないんですよね。

で、あれがちょっともったいないなって。

 

品種にこだわって買って、手で挽いて、お掃除もして、じっくり蒸らしたり繊細に抽出したりして……と、こんなに可愛がったのに、抽出が終わったらもう残った粉ぜんぶ捨てなきゃいけないって、なんかちょっとさみしいような。

 

とはいえ、コーヒーかすの活用方法なんて分からないですし...お菓子作りできる人ならクッキーに混ぜたりするのかなぁ??

 

 

……と思ったら、ありました。サステナブルコーヒーかすの活用法

 

 

目次

 

 

mame-ecoさんがコーヒーかすを回収してくれる

 なんと、個人で町中のコーヒーかすを集めて回っている方がいらっしゃったのです。ブルーム・ゲーリーさん、順子さん夫妻がやっている、「mame-eco」(マメエコ)プロジェクトです。コーヒーかすを地域の農家さんに提供することで、京野菜の肥料として活用してくれるのです。

mame-eco.org

 

 マメエコさんは、京都市内の八百屋さんやカフェなどと提携して、店頭に回収BOXを設置しています。

僕は、毎朝淹れたコーヒーのかすを、フィルターのままポリ袋に集めておいて、それを週1くらいで回収BOXに持っていくだけ。

お昼とかに持っていけるので、朝早いゴミ出しよりよっぽど簡単

 

コーヒーかす・フィルターと一緒に、ミルに残った粉も集めておく。

 

 コーヒー愛好家として、使った豆のかすも、余すところなく全部活用したいところ。そこにマメエコさんの活動はピッタリで、僕が味わったコーヒーの残りかすが地元の農家さんのお野菜の栄養へ循環していく*1というのは、本当に気持ちいい。

これぞ愛のある消費かな、と思いました。

 

 マメエコさんの回収BOXがあるスポットはこちら↓で紹介されています。京都市内にお住まいの方はぜひお近くのスポットを探してみてくださいね。

 また、京都以外にお住まいの方も、マメエコさんの活動にご関心の向きがあれば、活動の広め方、始め方の相談に乗ってくれるそうですので、ぜひチェックしてみてください。

mame-eco.org

 

イカした八百屋さんと出会う

 それで、僕が恐る恐る初めてコーヒーかすを持って行ったスポットが、八百屋の「フランク菜ッ葉」さん*2。それこそ地元のお野菜を直で売ってくれています(公式Facebook)。

 前回ご紹介したごみ0スーパー「斗々屋」さんでも回収しているのですが、そちらではフィルターは回収してもらえないようだったので、せっかくならとこちらへ足を運んでみました。

 

お店入口。青いバケツが回収BOX。

 僕は割と人見知りするタイプなので、最初はBOXにコーヒーかすを入れて、挨拶だけして退散したのですが、翌週はお野菜も一緒に買っていくことにしました。

パスタにいつも散らしている刻み葱を、自分で切って用意すれば財布に優しいんじゃないかという企みです。

 

戦利品の長ネギ(300円)。でかい!!

 料理超初心者の僕は、長ネギの青い部分は食べるんだか食べないんだかという話を風のうわさで聞いたことがあるのですが、ちょっと調べたら普通に青い部分も食べられるそうなので、まるごと全部刻み葱にしちゃいました。(その後、大量の刻み葱の保存方法に困ったのはまた別の話。)

普通に考えて、こんな半分以上もある青い部分を捨てるのはもったいなさすぎますよね。

 

 実はこのとき、ネギと一緒にほうれん草もいただいたのですが、そしたら帰り際、店主さんにオマケでおっきな里芋を一ついただいてしまいました。

ひえ~。お店で何かを「オマケ」とか「サービス」とかでもらっちゃうことなんて、ずいぶん無かったので、ちょっと感動。

 

 とはいえ、里芋の調理方法なんて知らないので、慌ててクックパッドを開きまして、簡単な煮っころがしを作ってみました。頑張りました。偉い。

cookpad.com

こちらのレシピを参考に。だし汁とみりんが家に無いので、日本酒で代用。めっちゃ美味しかった。冬に煮物つくるのってこんなに乙なものなのか。

 

 

野菜と一緒に、文化を買う

 というわけで、一介のコーヒー好きが、ひょんなことから地元のイカした八百屋さんに出会い、たまたま里芋なんかももらい、これまで思ってもみなかったような料理に手を出してしまい、生活の仕方が、日々を生きる態度が少し変わるまでのストーリーでした。

 

 僕がコーヒーを好むのは、文化を味わっているからです。

コーヒーって、普通に苦いし、ジュースみたいに「美味しい」わけではない。でもそれは、コーヒーが不味いという意味ではなく、ジュースとは違う意味で美味しいということなのです。コーヒーには、《紳士の嗜み》とか、《朝のひととき》とか、《職人的なこだわり》とか、《農家とのつながり》とか、色々な文化的イメージがブレンドされています。私たちはコーヒー一杯を飲みながら、文化をいただいているのです。

これは日本酒とかワインとか、あるいはビールなんかも同じでしょう。

 

日本人にとっては馴染みのある緑茶、抹茶、梅干し、納豆なんかも、この文化に馴染んでいない外国人からすれば、苦く、酸っぱく、不快に感じられたりするものです。でも私たち日本人は、「この苦味が良いんだよ」とか、「この粘り気がたまらない」とかと言ったりするわけです。

 で、この「良さ」とか「たまらなさ」というのは、ジュースやスナックなどの万人受けするよう作られた刺激的な「美味しさ」とは違って、もっと深みがあるものとして感じられるでしょう。

 

僕はコーヒーという文化を味わう中で、mame-ecoさんを通じて地元の農家さんという文化とつながり、その過程でフランク菜ッ葉さんという八百屋さんに出会い、そこの人たちが生きている文化と触れ合い、(ついでにフランク・ザッパの音楽に、その歌詞に出会い、)冬場に里芋の煮物を作るという文化を味わうところまで連鎖しました。まさに、芋づる式に。

 

スーパーでいつでも買えるような野菜というのは、規格化や箱詰めのために可食部(ネギの青い部分)を捨てられて、全国からトラックで輸送されてきて、それでも長持ちするようにと農薬を投与され、ビニール袋で包まれています。そして当然、自動機械レジで定価取引されて、「オマケ」なんて貰いようもありません。

もったいないし、CO2も出るし、トラック運ちゃん徹夜でしんどいし、農地にも負荷がかかりますよね。何より、おもしろくない。

 

 

一つの文化を味わい深めていくと、他の様々な文化に連鎖していく

日々の生活の中には、こんなにもたくさんの入口が隠れているようです。大量生産・大量消費・効率化の波に揉まれてたくさんの物をぞんざいに流していくのではなく、一つの物に立ち止まって、じっくり時間をかけて味わってみること。

そうすると、少しずつ日々を生きることが豊かになっていくんだなぁと感じました。

 

人間は、文化で呼吸しているからです。

*1:もちろん、最終的なことを言えば、コーヒー豆はアフリカや東南アジア、中南米から輸入されたものですから、究極的な循環をしようと思ったら豆の産地の栄養になる必要があるのですが、まずは身近な農家へ循環させるところから。やるのとやらないのとでは全然違います。世界各地のコーヒー農家にも、また別の仕方でお礼になることができたらいいなあ。

*2:この店名はもちろん、ビートルズと同時期に活躍したバンドマスターであるフランク・ザッパ由来。"Bobby Brown" では、古典的な白人男性のアメリカン・ドリームが現実と食い違っている滑稽さ、しかしそんな滑稽さをなんとなく生きていく生き様を「それでもアメリカンドリーム」と笑う明朗さが歌われています。歌詞を味わうタイプの音楽を久しぶりに聴きました。

www.youtube.com

ごみ"0"スーパー、斗々屋に行ってきたよ!①

 こんにちは、反資本主義・生活デザイン課の風見好日(カザミ コウジツ)です。先日、全品量り売りでフードロスやごみの大量発生の対策をしている食品スーパー、斗々屋さんに行ってみました。

 全ての食品が個包装されておらず、ビンやサーバーに直接詰められているので、それらを好きなだけ取って、重量に応じて清算。自前の真空パックやタッパーに入れて持ち帰るシステムです。ものを買うたびにプラスチックのパッケージを捨てたりしなくてよいので、たいへん環境にやさしい! なにより家でゴミが発生しないので、スペースを圧迫しないし、作業量も減ります。食材の入った容器をそのままカバンから取り出してキッチンに置くだけです。

totoya-zerowaste.com

 

 斗々屋さんのすごいところは、野菜や卵はもちろん、僕が普段たべているシリアルやパスタといった乾物、それからジュースや醤油などの調味料といった液体物まで、全て量り売りされているところです。こういうエシカルさを売りにしているお店って品数が少ないイメージがあったのですが、とんでもない。僕が入った京都本店は、もう本当にひとつの食品スーパーとして、普段の食生活に必要な食材全てが手に入るくらいでした。

ちなみに店内カフェやお惣菜の販売もありましたよ。僕みたいに料理が苦手な人への救済措置もありがたいですね()

 

都内は国分寺や、新潟の妙高などなどにも店舗があるそうなので、お近くの方はぜひ覗いてみてください~

 

目次

 

 

きっかけ

 普段は朝、だいたいフルグラ*1を食べているのですが、そうするとかなりの頻度で大きいプラスチック袋がゴミになるんですよね。

「どうせ毎日食べるなら、同じ容器に中身だけ詰め替えられればいいのに、なんて無駄なことをしてるんだ...」

とあるとき気付きました。いつも買うものが決まっている以上、僕にとってはパッケージがどれだけ派手でも関係ありません。

そのパッケージを製造するために使われた資源やインク、それを廃棄して処分するのに使われるエネルギー、そしてなにより、そのパッケージのために僕が払っているお金って全部無駄ですよね。

だから、「メーカーから中身だけ取り寄せられたらそこらのお店よりずっと安価で売って小遣い稼ぎできるよな...」とさえ考えました()

 

そこで、量り売りです。

 

わざわざいらないパッケージを作って捨てる工程をすっ飛ばして食品が手に入るわけですから、これほど合理的なことはない。今回はそのお試しをしてみました。

 

利用の流れ

 初入店。右も左も分からない感じでとりあえず店内を見て回りました。(店内の様子はぜひ公式ホームページ↑をご覧ください!)すると気の利いた店員さんが声をかけてくれて、利用方法の解説をしてくれました。

  1. 商品を備え付けの計量カップに入れる
  2. 店内のはかり台に乗せる
  3. パネルを操作して商品ラベルを発行する
  4. 商品を持参した容器に詰め替えて、容器にラベルを貼る
  5. レジでお会計(LINEを使ってポイントも貯まります)

という感じです。(もっとちゃんと写真付きで解説したいところですが、お会計にこぎつくのに精いっぱいでお写真忘れてました...)

初戦レシート。

実食!

 最初はとりあえず普段ぼくが主食にしているパスタ(今回はペンネ)とグラノーラを購入してみました。

まずはグラノーラから。グルテンフリーの自家製だそうです。

斗々屋自家製グラノーラ。店内には3種くらいありました

まずなんといっても、ナッツや具の粒が大きい! いつもは牛乳で食べる派の僕も、まずはそのまま食べてみて、食感やボリュームの満足感に驚きました。

塩で味付けされたとき特有の甘みがとっても上品。

途中から牛乳を投下したところ、しばらく経っても全然フニャフニャにならないのが不思議でした。普段食べているフルグラはフレークが入っているからかな?

最後まで具材がしっかり固形のまま残るので、100gちょっとでもかな~り満腹感。一食はもっと少なくてよかったかも()

 

続いてペンネ。この色白なお肌が凛としてかっこいい。

ペンネ。こんな感じでラベルを容器に貼り付けます

身がもっちり厚くて美味しい! 8分ほど茹でて、せっかくなのでまずはそのままパクリ。廉価で手に入るペンネとは厚みと噛み応えが段違いでした。

その後は調味料やレタス、お肉などを合わせて美味しくいただきました。これはぜひ友達に振舞いたいおいしさでしたね。

 

高品質だけど、やっぱりすこし高い

 というわけで、初めて量り売りスーパーを利用してみたのですが、やっぱりどうしてもぬぐえないのは、「ちょっと高いなぁ...」ということ。

いつも僕が購入しているフルグラが100gあたり100円、パスタが100gあたり40円とすると、斗々屋さんのフルグラやペンネはおよそ4倍ほどのお値段がすることがわかります。

 もちろん、そのお値段に見合った美味しさなので、ちょっと贅沢をしたり、友達と一緒に食べたりする分にはもってこいなのですが、普段の食生活を構築するには少しハードルが高そうです...。

高さの理由は?

 当初は、量り売りを選ぶことで食費が浮くことを想定していたのですが、むしろ高くなってしまいました。その理由はなんでしょう。実際に調べてみないと確定はできないのですが、いくつか想像することができます。

  • 有機栽培やグルテンフリー*2にこだわる*3ことで、原価が上がっている
  • 手作りにこだわることで、工場大量生産に比べコストが上がっている
  • 賛同生産者が「高くて美味しい」層に偏っている
  • トレーサビリティ*4の確保にかかる人件費が高い

このうち、前者3つは斗々屋さんの経営方針の問題というか、やりようによってはどうにかなりそうなものなのですが、最後の1つは少し厄介そうです。

 まず、私、風見好日は、無農薬や有機栽培、グルテンフリーにこだわっているわけではありません。反資本主義・生活デザインは、大量生産・大量消費の企業競争に揉まれる市場から脱却することで、貧困を脱し、結果的に健康や環境保全につながるものであって、健康や環境保全を第一目的とするものではありません。手づくりは生産者と消費者の意識を高めるうえで大事なのですが、まずは豊かな生活を確保することが大切です。

 また、店内には各食品の棚に生産者を紹介するカードが添えられているのですが、パッと見た感じ、どちらの生産者もいかにも「職人の高貴な技」といった雰囲気で、「いいとこのお店」みたいな香りがしました。(今度もっとしっかり見てみます。)ごみゼロに協力する限り、生産者もそれなりの意識の高さと丁寧なお仕事が必須になるわけで、そうすると自然とそういった層と結びつきやすくなります。これは、コーヒーなどの嗜好品ならばよいのですが、毎日の食事にするには少しお財布が...。

 そして、斗々屋さんが大切にしているであろうトレーサビリティの確保。各生産者や各従業員がちゃんとゴミを出さないような仕事をしているかのチェック。これにかかる人件費はありそうです。反資本主義・生活デザインのための量り売りにとっては、ここが課題となりそうです。

 

安くてエシカルな生活をめざして

 そもそもの話をすれば、近代以前の社会や農村の社会では、食品の生産から消費まで、無駄なゴミが出ず、また生産者と消費者が直接顔の見える関係にあること、ぜんぶ手作りであることは当たり前すぎるほど当たり前のことでした。これが当たり前ではなくなってしまった近代以降の社会において、どうやってエシカルな生活を取り戻すかが問題になります。

 エシカルさを売りにするお店やサービスは、当然、その「エシカルさ」に価値をつけなければなりません。かつてはエシカルなのは当たり前のことでしたが、エシカルじゃない企業が溢れる現代の市場では、エシカルであることが付加価値になり、ブランド、ファッションになり、そのぶん高い値段で売れることになります。「ウチはエシカルだよ~」とアピールすればするほど高くなってしまう構造があるでしょう。そうしなければ、エシカルなお店もこの安売り市場の中で自分の身を守れないからです。

 

しかし、抜け道が無いなんてことはありません。環境にも健康にもいい反資本主義的生活は、決してお金持ちや貴族の趣味ではなく、むしろ庶民のためにあるものです。このことはまたいずれ記事にします。

 市場のルールに従う限りジレンマに陥ってしまうならば、市場のルールを破ってしまえばいいだけの話なのです。市場なんてもともと町のただの一角に過ぎないのですから。炊き出しボランティアや子ども食堂、余ったパンの各戸配布といった取り組みが日本にはあります。そして最も身近なルール破りは、友達にお菓子を少し分けてあげちゃうことです。

 

 どうすれば庶民的な反資本主義的生活を構築できるでしょうか。まだまだ探っていきましょう。

 

*1:カルビーは具が硬くて食べづらい。日清は甘みが強いのと、あと割高。最近はケロッグの朝摘みイチゴをよく買ってます。

*2:小麦粉と水から生じるグルテンが含まれていないこと。グルテンが原因で倦怠感や肌荒れなどの症状を持つ人は案外多いらしい。

*3:とはいえ、斗々屋さんは厳しい農薬基準を設けているわけではありません。そうするとむしろ、無農薬でも経営し続けられるごく一部の裕福な農家に門戸が狭まってしまうからです。公式ホームページから閲覧できるパンフレット『生産者のみなさまへ』参照。

*4:生産者、配送業者、卸売業者、消費者までの一連の流れや、その中でどのような仕事がされているかがそれぞれの人々にとって目に見えるようにすること

ゆったりマイペースなカフェの時間を大事にしたい

 こんにちは。反資本主義・生活デザイン課の風見好日(カザミ コウジツ)です。大観光都市、京都に住んでいます。

 

 今日、地元の家族が京都に遊びに来てくれました。京阪電車に乗って、京都市北部、山中の貴船神社へ。

 道中、鞍馬寺を中継、ハイキングコースを1時間ほど歩いて、川床で有名な貴船神社まで行楽しました。

山中の由岐神社と立派なご神木「大杉さん」

貴船神社入口

貴船口の駅から見る紅葉

やはりこの紅葉のシーズンの貴船・鞍馬はとても美しくて、目が喜びました。

 

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観光地って良し悪し

 久しぶりにいっぱい歩いて良い運動にもなり、大変満足な旅になったのですが、とはいえ良くも悪くも観光地。貴船神社は比較的まだよかったですが、鞍馬寺のあたりは源義経ゆかりの地ということもあって、観光客で大変にぎわっていました。

 で、このようにザ・観光地化することの問題点というのは、やはり《寺社仏閣が宗教的な敬虔の場ではなくなって、観光客向けの様々な商業サービスに囲まれた場所になってしまう》ということ。ちょっと情緒というか、風情が失われてしまうんですよね。これを、「資本が入ってくる」という言い方をします。もっと極端な形になると、「ジェントリフィケーション」*1と言います。

 たとえば、貴船神社へ向かうハイキングコースに入るためには鞍馬寺の門をくぐらなければいけなくなっているのですが、その門を通過する際に入山料を払わなければいけないこと。まぁ、1人300円ほどだったので別に金銭的な不満があるわけではないんですが、受付の方の事務的な対応とか、あと、入山料がわざわざ「愛山料」という名前で書いてあるところとかもひとしおで、ちょっと「う~ん」という気持ちになりました。

 

でももちろんこういうのって寺社仏閣の人たちが悪いわけではなくって、観光客がたくさん来るようになっちゃってるから、一つの生存戦略なんですよね。鞍馬の駅から既に古びた看板が立っていて、「敬虔な気持ちで入山しましょう」みたいなことが書いてある。観光地化してから大量の観光客たちのマナーを律しようと苦労してきた歴史が伺われます。

 

観光地のカフェは選択肢に入れない

 もう一つ。貴船神社からの帰り、パンパンになった足を休めついでに、甘味処に入りました。

おぜんざい。一緒に出てきたしいたけとなめたけのつき出しも美味しかった

ただここも、必要最低限といった感じでした。入店してみて勝手が分からずにいると、女将らしき方がゆらゆら出てきて、脇から若い男の子たちが伺いがちに歩いてくる。いかにも学生バイトといった感じで、そのあとのメニューの指示も本当に必要最低限という感じ。世間知らずの学生を教育する女将さんは大変そうだなぁ、という気持ちになりました。

 

 でもまぁ、これも仕方がないと言えば仕方がない。全国各地から観光客が押し寄せるもんだから、旅館や料亭の側も継続的なサービスを提供しなきゃとなって、人手も足りないから大量の学生たちから補填する。で、学生の側は日々の小遣いとか生活費さえ手に入ればいいという気持ちでアルバイトをする。最初から無理を押してやっているわけで、そこに良質なサービスを求めるのもお門違いといったところでしょう。

 

そう。観光産業って基本的に無理があるんだと思うんです。よっぽど上手くやらないとね。だって、土地を商品にするわけで、その土地にはもともと住んでいる人たちがいるんですから。もともと住んでいる人たちからすれば、外から訪れた人におもてなしをするっていうのは、本来、普段の生活に加えてオマケでやっていることなはずなんですよね。

 そこに、「継続的に安定したサービスを提供しろ」なんて要求をすべきじゃないんですよ。その要求に無理に答えようとすれば、どうしても情緒の無い商業サービスにならざるを得ない。本来のおもてなしって、ちゃんと礼儀と敬虔さのある旅人と、それを歓待する住人たちとの、出会いだと思うんですよね。

 

 だから、カフェ好きの私としては、たとえ観光で来ていたとしても、「カフェに入ろう」と思ったら、観光地のカフェに入るのではなく、ちょっと電車に乗ってでも、町の路地にあるこじんまりしたところとか、生活に密着したところに行くべきだな、と実感しました。観光地のカフェはどうしてもしょうがないときに入るところであって、積極的に選ぶところではないんでしょうね。

 

ほろ宵を味わう一人カフェ

 晩は市中の華、先斗町に向かいまして、地鶏や合鴨、鯛の藁焼き(たたき)がいただける「」さんにお邪魔しました。これが本当に美味しかった...。ほかのお店と比べても高すぎず、先斗町の中では優しいお値段だったのかな、と思いますが、本当に新鮮でほっぺたが落ちそうなものをいただけました...。たまの贅沢って、いいですね。

お漬物、生湯葉春巻き、三種の藁焼き

退店後、家族と別れまして、夜の四条に一人。このまま自宅に帰るのもなんとなくもったいなくて、清酒でぽーっとする頭を夜カフェへと運びました。最初は25時までやっている喫茶ルイルイさんにお邪魔しようかと思ったのですが、あいにく満席だったので御幸町方面へ。前から少し気になっていた1928ビルの地下にあるカフェ・アンデパンダンに入れてもらいました。ちょうど団体さんが入っていて賑やかだったのですが、隅のカウンター席でゆったりお一人様コース。

クレーム・ブリュレとエスプレッソ。あとバタイユ

なんて贅沢な時間でしょう。後ろがなにもない夜だからこそ、な~んにも気にせずマイペースに苦味と甘味をいただき、本を読む。個人的には、酔いが回っている状態だと本がスルスル読めるので気持ちいいです。

 

 

 コレコレ。こういうひとときが日々を潤してくれます。今後もこういう《生活のなかの幸せ》を大事にしていきたいと思います。私たちの生活を守れるよう、明日からまた頑張りましょう。

*1:都市人や芸術家などが田舎の一角に居を構え、その情報が都市部に大々的に宣伝されると、都市人たちがこぞって田舎に押しかけてしまい(「田舎へのあこがれ」とか)、ここぞビジネスチャンスとばかりに企業が参入して、あたり一角を都市人向けに開拓してしまうこと。元々住んでいた田舎の人々にとっては住みにくい環境になってしまう。

無力感との闘い①:『資本主義リアリズム』を読む前に

 こんにちは、反資本主義・生活デザイン課の風見好日(カザミ コウジツ)です。

現代社会がどれだけ生きづらい世界かということ、そしてそれを打破するためには資本主義システムそのものを破壊しなければいけないということ。このことを理解するためにカッコウの理論書の一つは、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』でしょう。この本は、タイトルの通り、「資本主義を破壊しようったって、他の道なんて無いでしょ、結局は資本主義しかありえないんだよ」というあの諦めとも冷笑ともつかない感覚*1について徹底的に考えた本です。そして最終的に、「資本主義って、思ってるほど当り前じゃない」ということを教えてくれる本です。

www.hanmoto.com

 

 

……とはいえ、私はまだ読んでいないんですけどね!*2

ちょうどこれから読もうと思っていて、そのための気持ちの整理をしておこう、というのが今回の記事です。

 

 

「本を読む前の気持ちの整理?」と思うかもしれませんが、割と大事だと思っています。特に、今回読む『資本主義リアリズム』は、確実に暗い話が待ってるでしょう。「資本主義を打破しようったって、そんな甘いやり方じゃ意味ないぜ」ということをこれでもかと突き付けてくるでしょうから。

 ですから、私たちもこの本を読む前に、それなりに心構えをしておかなければなりません。資本主義社会を前にした無力感を乗り越えるためにこの本を読むんですから、この本を読むことで無力感に飲み込まれてしまっては、本末転倒です

そこで、試しに、(まだ実際に読んでいないのに僭越ながら!)amazonのレビュー*3に対する簡単な批評を通して、無力感に備えてみようと思います。

 

目次

 

レビュー論点①:レイアウトがダメ

「本文のレイアウトは全然だめ。注釈においても、位置と流し方が最悪。」

「詩集か! と我が目を疑った。〔……〕あえてスッカスカの組版にしたうえに、1頁10円という定価設定。なんとも商魂たくましいというか、この出版社みずからが書名の「資本主義リアリズム」を実践しているとしか思えないのは、読者にしてみれば皮肉にもならない。」

……なるほど。どうやら、この堀之内出版から出されている邦訳は、まるで詩集のようなレイアウトになっていて、外形の厚さのわりに本文が少なくなっているようです。このことから、レビュアーの一人は《この本を売り、買うこと自体が資本主義的になってしまっている》と批判しています。

 実際、『資本主義リアリズム』の論点の一つは、《資本主義に抵抗しようとする運動がすぐに資本主義に絡めとられてしまう》という問題です。例えば、エコバッグを大量生産することで環境に負荷をかけているグリーンウォッシュ*4など典型的なそれでしょうね。このことを踏まえれば、同書の販売自体が資本主義に加担しているなど、言語道断でしょう。

 まだ購入してないんですが、とりあえず中古ないし古本屋で買うことは決定かな

 

……まぁ、これは前座みたいなものなんですが。本題はここからです。

 

レビュー論点②:結局この本で人々を動かすことなんてできない?

「この本も、この本を販売しているAmazonもインターパッシヴィティ〔……〕本書は、資本主義リアリズムの問題点や危険性を示唆するようで、実はその行為によって読者は相互受動性に取り込まれている仕組みなのである。」

「本邦の若者に読んでほしいのだが、無理かもしれないなあとの再帰的無能感に包まれてしまう。貸しても、すぐ返ってくるだろう。〔……〕ていうか、そもそもマルクス読んでよ。人新世なんていいから。」

「この本を読んでも資本主義の代替案を構想できず、相変わらず社会の歯車として働くしかない私は、悲しいことにまぎれもなく愚かな人類のうちの一人だと思いました。」

 

 フィッシャーが『資本主義リアリズム』の中で指摘している、資本主義システムの特徴の一つ、「相互受動性(interpassivity)」。つまり、超高速に便利化した社会で、例えばSNSで情報が流れてきていいね!だけ押して流れ去っていくように、お互いが受動的な存在になっていくこと。レビュアーの一人からすれば、amazonで本書の情報を見つけて、気になって読んで、暇つぶしにする、というのがもう、この相互受動性の構造なのだということです。

 また、自称「〔フィッシャーと〕同世代のオッサン」のあるレビュアーは、この本をぜひ若者にこそ読んでもらいたいが、最近の若者には知識や読解能力が不足していて、この本を読むことさえままならないのではないか、と悲観しています。本音を言えば最も古典であるマルクスを読んでもらいたいが、それもかなわないだろう、と。

 また別のレビュアーは、同書に希望がありそうだという展望を持ちつつも、最後は人類の愚かさというスケールでため息をつき、自分も結局何もできない、という懺悔を吐露することで終わってしまっています。

 

 

……言いたいことは分かるけど、バカヤロウ、という感じですね。

 

 確かに、同書を読んだだけでただの暇つぶしに満足してしまうなら、それは本末転倒でしょう。若者が同書をしっかり理解するのが難しいというのもそうかもしれません。また、同書を読み終わったところで、即座に行動を起こすというのも簡単な話ではないでしょう。

 でもさあ、それなら同書を読んでこれから実践に活かしていく方法を考えればいいだけの話でしょう。若者に読んでもらう活動を始めてみればいいだけの話でしょう。ゆっくり行動を起こす方法を調べていけばいいだけの話でしょう。

 せっかく知識も経験もある大人たち、「オッサン」たちなのに、あなたたちが先に悲観的になってどうするんですか。もし冷笑さえしているとしたら、最悪です。以上のようなレビューが《これを読んだからって満足してはいけないよ》という警告として機能するならばよいのですが、もしこれが反対に《だから結局抵抗しようとしたって無駄なんだよ》と受け取られてしまったら、まるで意味がないでしょう。

 資本主義を打破することの難しさを認識するのは、あくまでそれを糧にして資本主義を打破するために、であって、ただその難しさに打ちひしがれて「結局なにやっても無駄なんだ...」という無力感に溺れたオナニーにふけるのは全くはき違えているでしょう。(いや、一晩くらいオナニーして枕を濡らしてもいいんですが。翌朝から勝負を再開しましょう。)なんにせよ、知識は冷笑や知ったかぶりをするためのアクセサリーではない。戦うための武器です。

 

 

 著者のマーク・フィッシャーは2017年に自殺しています。『資本主義リアリズム』では資本主義を打破する希望も語られているはずですが、具体的なビジョンが見えない、というレビューもあります。

「この本には、資本主義に対する詳細な代替案は書いてありません。」

ですが、私は本職の哲学研究や、様々な読書と生活実践を通じて、少しずつ反資本主義のビジョンが見えてきていると感じています。レビュアーの一人は「人新世」ブーム(?)を揶揄していましたが、私の持つ希望は、人新世と無関係ではありません。

 また、具体的な打開策を語らなかったフィッシャーは、希望を開く方法を次のように語っています。

資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの『現実主義(リアリズム)』が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすることだ

私の中には、資本主義の構造が「擁護不可能」な「矛盾」を持っていることを明らかにする理論が準備できています。これもそのうち記事にしたいと思っています。

 

 

……ということで、フィッシャーの『資本主義リアリズム』を読みましょう、若者よ!私よ!できれば中古で!

*1:「この道しかない(There Is No Alternative. = TINA)」。これは「鉄の女」で有名なイギリスの政治家サッチャー新自由主義政策を強行したときに放った言葉です。このあたりの事情については在日琉球人さんのブログ記事が参考になります。

nationoflequio.hatenablog.com

*2:ちなみに私が同書の主旨を聞き知ったのは、木澤佐登志の『失われた未来を求めて』という本からでした。資本主義とは別の未来、別の世界があり得るということを実感させてくれる点では、こちらの本も素晴らしいです。

www.daiwashobo.co.jp

*3:

www.amazon.co.jp

*4:企業がただ宣伝効果や企業イメージアップのためだけに「エコ」や「環境に優しい」というイメージを利用していて、結局環境に優しくないことをしている、という本末転倒のこと

生きがいを取り戻すための9つのルール

 こんにちは。反資本主義・生活デザイン課の風見好日(カザミ コウジツ)です。

本ブログでは、現代の巨大企業・巨大市場システムに振り回されずに、自分らしい生活をゆっくり送るための方法を皆さんと一緒に模索しています。しかしその道は簡単なものではありません。もしかしたら本ブログが皆さんに混乱を与えてしまうかもしれない。

そこで、本ブログを通して私がどんな立場・どんな考えで記事を書いているか、そして、皆さんにもどんな気持ちでいてほしいか、ということをまとめてみようと思いました。以下が、私の約束、そして皆さんへの提案です。

 

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1. ネットや巷の情報に振り回されず、専門家の意見を知ること

 これは、とりあえずの基本になります。特に、私は現在、某国立大学にて豊富な資料や多様な分野の専門家の教授たちと交流する機会に恵まれています。なので、私ができる範囲で信頼できる情報源をあたり、学術文献や統計資料、教授の指導などから、皆さんに情報をお届けするようにしています。

 SNSやテレビから得られる情報が必ずしも信頼できないとは言いませんが、偏ったものになりがちです。(もちろん、大学で得られる情報も偏っていますが。)私は本ブログで、専門的で信頼できる知を、できるだけ分かりやすい言葉に嚙み砕いて、紹介しようと思っています。その際、具体的な参考文献の情報も添えることで、その情報の出どころを証明し、また、皆さんがより一層ご自分で情報を集める際のお手伝いをします。

 

2. 頭で理解するだけでなく、実際に自分で試してみること

 しかし、大事なのは知識や理論を頭で理解し覚えることではありません。本来の目的は、その知識を生かして、私たちの生活をより居心地のよいものに、より身近な人に優しく、より自分を肯定できるようなものにすることです。私が本ブログを始めたのも、そのような実践として、です。

 例えば、資本主義社会ではフードロスが問題になっています。つまり、食べ残しや売れ残りが、飢餓に苦しむ人々やホームレスの人々に届けられるでもなく、大量に捨てられ化石燃料で燃やされている、という問題です。私がこのような情報を皆さんにお伝えします。そしたら、ぜひ身の回りで「ごみゼロ」や「こども食堂」、「量り売り」などのサービスを探してみてください。Googleマップでお店を探してみたりしてください。大事なのは、「フードロスの問題がある」ということに怒ったり悲しんだりすることではなく(それは通過点です)、「じゃあどんな良いやり方があるのかな?」と身近なところから探ってみることです。

 私自身も、単に情報をお伝えするだけではなく、実際に自分で試してみて、その体験談などをお話ししていこうと思っています。

 

3. 《なんか上手くいかないな》という気持ちを正直に吐き出すこと

 そうして実際に自分でやってみると、最初に思っていたよりも上手くいかないことがわかります。例えば、量り売りのお店が家から少し遠いとか、そういう小さなところから、実際にお店に来たら、ごみゼロなのはいいけど他のスーパーより値段が高くてビックリ!とか、家庭や職場の環境を改善しようと思ったけど家計や予算の関係で全然受け入れてもらえない...とか。私たちはそういう壁にぶつかります。当然です。理論や知識も、それだけでは決して完璧ではないですし、私たちはまだ行動しはじめたばかりなのですから。そして、私たちの行動によって、その理論や知識を補ったり改良したりしていくことが絶対に必要なのですから。

 そのような壁にぶつかったときに、「私はダメなんだ」とか、反対に「反資本主義なんて嘘っぱちだ」とか、「いや、無理してでもやらなきゃいけないんだ」とか、ましてや「私は無理してでもやってるんだから、これをやってない人たちは悪だ」とか、「無理を超えてやれている私は偉大だ」なんて考えてはいけません。それは焦りすぎであり、早く結論を下そうとしちゃっています。さっきも言ったように、私たちはまだまだ行動しはじめたばかりなのです。1, 2歳の子どもが歩くのに失敗して転んでしまったからと言って、「この子は出来損ないだ」なんて言う人がいるでしょうか?(もし身近にいたら叱ってください。)誰にでも同じように当てはまるような理論や知識などありません。その人の気質、職業、年齢、地域などなど、様々な条件によって状況は千差万別です。だから、《なんか上手くいかないな》と感じたら、素直にそのことを認めて、「上手くいかないとき、何が障害になってるんだろう」とか、「じゃ他に、自分でもできそうなどんなやり方があるかな」ゆっくり時間をかけて探っていきましょう。無理して最初の思想を頑固に通そうとするのは、全く持続可能ではありません。

 

4. 大事なのは《正しくあること》ではなく、《自分や大切な人を守ること》

 私は本ブログで、私たちのメンタルや、地球の環境や、芸術的文化を大切にできるようなライフスタイルを紹介しています。そして私自身は、そのようなライフスタイルを自分で実践すること、また皆さんに実践してもらうことを、ある意味で「良いこと」、「人々や社会のためになること」、「正しいこと」であると考えています。そして学者らしく、その科学的根拠も理解しているつもりです。

 しかし実は、一番重要なのは、この考え方がどれほど正しいかではありません。私のこの考え方をあくまできっかけとして、少しでも多くの人たちが、満足を感じられるような生活を送れるようになること。これが本来の目的です。だから、自分自身や身近な人が本当に実感をもって(どこに)満足を感じられているかどうか、これが大切です。逆に言えば、これまで通りの資本主義的な生活では、自分自身や身近な人が本当に実感をもって(どこに)苦しんでいたのかどうか、これが大切なのです。

 私が資本主義的な生活ではいけないと思ったきっかけ、いつかその話も記事にできたらと思いますが、一言で言えば、資本主義のシステムに飲み込まれてしまった結果、10年以上付き合ってきた親友たちと離別し、愛していた人とも絶縁関係になってしまった、という経験です。最後の方は、かつてあれほど愛していた、人生を賭けてよいと思っていたその人を、心の底から憎むまでになっていました。その人の「死にたい」という呟きも、取るに足らないお小言のようにしか聞こえなくなっていました。そういう人間が、自分の一番嫌いな人間なのに。自分の大切な人々を守ろうとしていたはずが、労働市場でもみくちゃにされた結果、人も愛せなくなって、自分の身の回りの空間を滅茶苦茶にし、守るべきものを自分で傷つけてしまっていたのです。私は、もう絶対に他の人に私と同じ失敗をしてほしくない。そう思って、本ブログをはじめました。他のルールも全てそうですが、私の考え方は私の失敗体験からきています。

 反資本主義的生活を実現するためには、理論の正しさ、科学的根拠が重要です。しかしそれを皆さんにお伝えし、また皆さん自身で考えてもらうためには、《論理的・理論的に正しいかどうか》よりも、《どうして、何がきっかけでそうしようと思ったのか》の方がずっと大事なんです。最初の動機、本当の目的を見失わなければ、途中で道を踏み間違えても、「何かおかしいな」ときっと気付けます。反対に、「正しくあろう、正しくあろう」とばかり考えていると、それに気付けないのです。

 

5. 自分ひとりで良くなろうとするのではなく、周りの皆と相談すること

 上でも見てきましたが、反資本主義的なライフスタイルを実際にやってみようとすると、色々な大変さが見えてくると思います。特に、身近な人、親しい人、大切な人と一緒に実践しようとすると、その大変さは大きくなります。どれほど仲のいい友人でも、育ってきた環境や、これまで培ってきた考え方が違うのですから。例えば、反資本主義的に生きるときには、外食や出前よりも自宅で調理をする方が、廃棄物や家計の観点からは望ましいです。しかし、友達と遊んだり、一緒に仕事を終えた同僚とこれからパーッと食事をしたい、ということがあるでしょう。そのとき、本当に自分の考え方に理解のある友達同士ならばよいですが、かなり親しくても、まだ自分が反資本主義的ライフスタイルをやってみようと思い立ったことを話していない友人とか、そういう人たちといる時に、「いや、自分はホームパーティじゃないと嫌だぞ」と意固地になってはいけません。(もちろん、ホームパーティも楽しいです。)そのように意固地になってしまうと、これまで仲良く、大切に思えていたはずの友人が、急に「資本主義的人間」というレッテルのついたものに見えてきてしまいます。自分の大切な人が、突然、敵に見えてくるのです。これは本末転倒です。反資本主義が大切だからこそ、友情も大切なのですから。

 では、友人や友人と遊んでいるときの自分は大目に見て、反資本主義的ライフスタイルは自分一人だけで実践すればよいでしょうか?最初の内はそれでも十分よいでしょう。しかし、それ一辺倒で行こうとすると、やがて無理がきます。というのも、自分一人だけ純粋に、綺麗になっていこうとするのも、それはそれでやはり独善的であり、結局は身の回りの人を見下すような気持ちに繋がってしまうからです。(それが、いわゆる悪い意味での「ファッション」です。)ですから、友達を巻き込もうとする方向にマッタをかけるサインが友達を見下したり敵視したりする感情だったのと同じように、自分一人だけで完結しようとする方向にマッタをかけるサインも、身の回りの人や社会を見下したり敵視したりする感情です。このような感情が見えてきたら、「いかんいかん」と少し冷静になってみましょう。

 元々、私も本ブログを始めていますし、私一人で生きがいのある生活を取り戻しても仕方がないのです。できるだけ多くの人に、絶望しなくてもいい生き方があるのだということを知ってもらいたいのです。それに、実はそもそも、反資本主義的生活を本当に実現していくためには、自分一人だけでは不可能なのです。現代社会の経済の構造を変えていく必要があるからです。だから、本当にゆっくりでもいい、右往左往しながらでもいいから、皆さんと一緒に、皆さんの身の回りの人たちと一緒に、いろいろ試していくこと、これが大切です。

 

6. 大事なのは《何をするか》ではなく、《どんな気持ちでするか》

 人はどのようなときに良い人になるのでしょうか。色んな考え方がありますが、私は、その人が愛をもって行動しているときだと考えます。愛と言っても、他人に対する愛ではありません。自分と、身の回りの人たちと、それから自分がこの世界に生きていること自体への愛です。私の好きなドイツの哲学者マックス・シェーラー〔1874-1928〕は、その人が愛を持っているか、憎しみを持っているかは、その人の行動が他人のためになされるか、自分のためになされるかとは全く関係が無い、と言っています*1。愛をもって行動することは、他人の利益のために自分をないがしろにすることではありません。それは結局、自分や世界への憎しみでしかないのです。愛をもって行動することは、自分を大切にしているからこそ、身の回りの人を助けたりすることもできるような、満ち足りているあり方なのです。だから、「他の人を助けよう」とか、反対に「自分が良くなろう」とばかりやっきになって、そのことが自己目的化してしまえば、本末転倒なのです。

そこに愛はあるんか??

 人の善悪や良い悪い、幸福か苦痛かを決めるのは、その人がどんな行為をしているか、どんな選択をしているかではありません。たとえば、大量生産・大量消費を避けるべきだと言って、今日からすぐに大型スーパーマーケットに通うのをやめたり、全て自給自足で賄おうとしたりするのが必ずしも善だとは言えません。それが自分も身の回りの人も全く無理なくできるならよいですが、そうでないのなら、無理があるところ、憎しみの萌芽があります。たまにチョット頑張る必要があるときはありますが、チョット頑張ったら、近いうちにしっかり休んで、生活を味わいましょう。ゆっくりじっくり時間をかけて、しかし粘り強く、変えていくのが大事です。

 もちろん、このような愛を忘れさせてしまうのが、資本主義社会の罪です。この社会で息苦しくなっている私たちは、この愛を思い出せなくなりがちです。ですから、最初のうちは《何をするか》という考え方で動いてしまっても仕方ありません。しかし、《どんな気持ちでするか》こそが大切なのだということは、頭の片隅に置いておいてください。気持ちが変われば、自然と行動も変わっていき、やがて正のスパイラルに変わります。

 

7. やりたいと思ったときにやること

 以上のルールからもお分かりかと思いますが、自分のそのときのやる気に忠実になることが結構大事です。私も、本ブログは定期的に更新することを守るのではなく、ふと思いついたときや、新しい挑戦をしてみたときなど、「更新したいな」と思ったときに更新しようと思っています。それでも納得していただける皆さんに応援してもらいたいと思います。

 

8. 以上のルールを守れなくても自分を許してあげること

 以上のルールも一つの理論でしかなく、不十分なところもあるでしょう。例えば、私は「怒りや悲しみは通過点でしかない」と言いました。これは私の様々な思い出や失敗体験に基づいています。しかし、もしかしたら皆さんの中には、もっと上手に怒りや悲しみをエネルギーにすることができる人もいるかもしれません。私にはまだ想像できませんが、そういった人なら、私のものともまた違ったルールで動くことができるかもしれません。

 

9. 以上のルールはこれからも柔軟に変えていくこと

 以上のルールも一つの理論です。これからの活動や実践を通して、随時更新していこうと考えています。そのときには、更新日時の記録などを添えて、皆さんにそのことが伝わるようにしようと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。

*1:M.シェーラー「道徳の構造におけるルサンチマン」『シェーラー著作集』4,白水社,2002.