反資本主義・生活デザイン課

やりがいのない仕事を逃れ、芸術的に生きるための知と実践。

生きがいを取り戻すための9つのルール

 こんにちは。反資本主義・生活デザイン課の風見好日(カザミ コウジツ)です。

本ブログでは、現代の巨大企業・巨大市場システムに振り回されずに、自分らしい生活をゆっくり送るための方法を皆さんと一緒に模索しています。しかしその道は簡単なものではありません。もしかしたら本ブログが皆さんに混乱を与えてしまうかもしれない。

そこで、本ブログを通して私がどんな立場・どんな考えで記事を書いているか、そして、皆さんにもどんな気持ちでいてほしいか、ということをまとめてみようと思いました。以下が、私の約束、そして皆さんへの提案です。

 

目次

 

 

1. ネットや巷の情報に振り回されず、専門家の意見を知ること

 これは、とりあえずの基本になります。特に、私は現在、某国立大学にて豊富な資料や多様な分野の専門家の教授たちと交流する機会に恵まれています。なので、私ができる範囲で信頼できる情報源をあたり、学術文献や統計資料、教授の指導などから、皆さんに情報をお届けするようにしています。

 SNSやテレビから得られる情報が必ずしも信頼できないとは言いませんが、偏ったものになりがちです。(もちろん、大学で得られる情報も偏っていますが。)私は本ブログで、専門的で信頼できる知を、できるだけ分かりやすい言葉に嚙み砕いて、紹介しようと思っています。その際、具体的な参考文献の情報も添えることで、その情報の出どころを証明し、また、皆さんがより一層ご自分で情報を集める際のお手伝いをします。

 

2. 頭で理解するだけでなく、実際に自分で試してみること

 しかし、大事なのは知識や理論を頭で理解し覚えることではありません。本来の目的は、その知識を生かして、私たちの生活をより居心地のよいものに、より身近な人に優しく、より自分を肯定できるようなものにすることです。私が本ブログを始めたのも、そのような実践として、です。

 例えば、資本主義社会ではフードロスが問題になっています。つまり、食べ残しや売れ残りが、飢餓に苦しむ人々やホームレスの人々に届けられるでもなく、大量に捨てられ化石燃料で燃やされている、という問題です。私がこのような情報を皆さんにお伝えします。そしたら、ぜひ身の回りで「ごみゼロ」や「こども食堂」、「量り売り」などのサービスを探してみてください。Googleマップでお店を探してみたりしてください。大事なのは、「フードロスの問題がある」ということに怒ったり悲しんだりすることではなく(それは通過点です)、「じゃあどんな良いやり方があるのかな?」と身近なところから探ってみることです。

 私自身も、単に情報をお伝えするだけではなく、実際に自分で試してみて、その体験談などをお話ししていこうと思っています。

 

3. 《なんか上手くいかないな》という気持ちを正直に吐き出すこと

 そうして実際に自分でやってみると、最初に思っていたよりも上手くいかないことがわかります。例えば、量り売りのお店が家から少し遠いとか、そういう小さなところから、実際にお店に来たら、ごみゼロなのはいいけど他のスーパーより値段が高くてビックリ!とか、家庭や職場の環境を改善しようと思ったけど家計や予算の関係で全然受け入れてもらえない...とか。私たちはそういう壁にぶつかります。当然です。理論や知識も、それだけでは決して完璧ではないですし、私たちはまだ行動しはじめたばかりなのですから。そして、私たちの行動によって、その理論や知識を補ったり改良したりしていくことが絶対に必要なのですから。

 そのような壁にぶつかったときに、「私はダメなんだ」とか、反対に「反資本主義なんて嘘っぱちだ」とか、「いや、無理してでもやらなきゃいけないんだ」とか、ましてや「私は無理してでもやってるんだから、これをやってない人たちは悪だ」とか、「無理を超えてやれている私は偉大だ」なんて考えてはいけません。それは焦りすぎであり、早く結論を下そうとしちゃっています。さっきも言ったように、私たちはまだまだ行動しはじめたばかりなのです。1, 2歳の子どもが歩くのに失敗して転んでしまったからと言って、「この子は出来損ないだ」なんて言う人がいるでしょうか?(もし身近にいたら叱ってください。)誰にでも同じように当てはまるような理論や知識などありません。その人の気質、職業、年齢、地域などなど、様々な条件によって状況は千差万別です。だから、《なんか上手くいかないな》と感じたら、素直にそのことを認めて、「上手くいかないとき、何が障害になってるんだろう」とか、「じゃ他に、自分でもできそうなどんなやり方があるかな」ゆっくり時間をかけて探っていきましょう。無理して最初の思想を頑固に通そうとするのは、全く持続可能ではありません。

 

4. 大事なのは《正しくあること》ではなく、《自分や大切な人を守ること》

 私は本ブログで、私たちのメンタルや、地球の環境や、芸術的文化を大切にできるようなライフスタイルを紹介しています。そして私自身は、そのようなライフスタイルを自分で実践すること、また皆さんに実践してもらうことを、ある意味で「良いこと」、「人々や社会のためになること」、「正しいこと」であると考えています。そして学者らしく、その科学的根拠も理解しているつもりです。

 しかし実は、一番重要なのは、この考え方がどれほど正しいかではありません。私のこの考え方をあくまできっかけとして、少しでも多くの人たちが、満足を感じられるような生活を送れるようになること。これが本来の目的です。だから、自分自身や身近な人が本当に実感をもって(どこに)満足を感じられているかどうか、これが大切です。逆に言えば、これまで通りの資本主義的な生活では、自分自身や身近な人が本当に実感をもって(どこに)苦しんでいたのかどうか、これが大切なのです。

 私が資本主義的な生活ではいけないと思ったきっかけ、いつかその話も記事にできたらと思いますが、一言で言えば、資本主義のシステムに飲み込まれてしまった結果、10年以上付き合ってきた親友たちと離別し、愛していた人とも絶縁関係になってしまった、という経験です。最後の方は、かつてあれほど愛していた、人生を賭けてよいと思っていたその人を、心の底から憎むまでになっていました。その人の「死にたい」という呟きも、取るに足らないお小言のようにしか聞こえなくなっていました。そういう人間が、自分の一番嫌いな人間なのに。自分の大切な人々を守ろうとしていたはずが、労働市場でもみくちゃにされた結果、人も愛せなくなって、自分の身の回りの空間を滅茶苦茶にし、守るべきものを自分で傷つけてしまっていたのです。私は、もう絶対に他の人に私と同じ失敗をしてほしくない。そう思って、本ブログをはじめました。他のルールも全てそうですが、私の考え方は私の失敗体験からきています。

 反資本主義的生活を実現するためには、理論の正しさ、科学的根拠が重要です。しかしそれを皆さんにお伝えし、また皆さん自身で考えてもらうためには、《論理的・理論的に正しいかどうか》よりも、《どうして、何がきっかけでそうしようと思ったのか》の方がずっと大事なんです。最初の動機、本当の目的を見失わなければ、途中で道を踏み間違えても、「何かおかしいな」ときっと気付けます。反対に、「正しくあろう、正しくあろう」とばかり考えていると、それに気付けないのです。

 

5. 自分ひとりで良くなろうとするのではなく、周りの皆と相談すること

 上でも見てきましたが、反資本主義的なライフスタイルを実際にやってみようとすると、色々な大変さが見えてくると思います。特に、身近な人、親しい人、大切な人と一緒に実践しようとすると、その大変さは大きくなります。どれほど仲のいい友人でも、育ってきた環境や、これまで培ってきた考え方が違うのですから。例えば、反資本主義的に生きるときには、外食や出前よりも自宅で調理をする方が、廃棄物や家計の観点からは望ましいです。しかし、友達と遊んだり、一緒に仕事を終えた同僚とこれからパーッと食事をしたい、ということがあるでしょう。そのとき、本当に自分の考え方に理解のある友達同士ならばよいですが、かなり親しくても、まだ自分が反資本主義的ライフスタイルをやってみようと思い立ったことを話していない友人とか、そういう人たちといる時に、「いや、自分はホームパーティじゃないと嫌だぞ」と意固地になってはいけません。(もちろん、ホームパーティも楽しいです。)そのように意固地になってしまうと、これまで仲良く、大切に思えていたはずの友人が、急に「資本主義的人間」というレッテルのついたものに見えてきてしまいます。自分の大切な人が、突然、敵に見えてくるのです。これは本末転倒です。反資本主義が大切だからこそ、友情も大切なのですから。

 では、友人や友人と遊んでいるときの自分は大目に見て、反資本主義的ライフスタイルは自分一人だけで実践すればよいでしょうか?最初の内はそれでも十分よいでしょう。しかし、それ一辺倒で行こうとすると、やがて無理がきます。というのも、自分一人だけ純粋に、綺麗になっていこうとするのも、それはそれでやはり独善的であり、結局は身の回りの人を見下すような気持ちに繋がってしまうからです。(それが、いわゆる悪い意味での「ファッション」です。)ですから、友達を巻き込もうとする方向にマッタをかけるサインが友達を見下したり敵視したりする感情だったのと同じように、自分一人だけで完結しようとする方向にマッタをかけるサインも、身の回りの人や社会を見下したり敵視したりする感情です。このような感情が見えてきたら、「いかんいかん」と少し冷静になってみましょう。

 元々、私も本ブログを始めていますし、私一人で生きがいのある生活を取り戻しても仕方がないのです。できるだけ多くの人に、絶望しなくてもいい生き方があるのだということを知ってもらいたいのです。それに、実はそもそも、反資本主義的生活を本当に実現していくためには、自分一人だけでは不可能なのです。現代社会の経済の構造を変えていく必要があるからです。だから、本当にゆっくりでもいい、右往左往しながらでもいいから、皆さんと一緒に、皆さんの身の回りの人たちと一緒に、いろいろ試していくこと、これが大切です。

 

6. 大事なのは《何をするか》ではなく、《どんな気持ちでするか》

 人はどのようなときに良い人になるのでしょうか。色んな考え方がありますが、私は、その人が愛をもって行動しているときだと考えます。愛と言っても、他人に対する愛ではありません。自分と、身の回りの人たちと、それから自分がこの世界に生きていること自体への愛です。私の好きなドイツの哲学者マックス・シェーラー〔1874-1928〕は、その人が愛を持っているか、憎しみを持っているかは、その人の行動が他人のためになされるか、自分のためになされるかとは全く関係が無い、と言っています*1。愛をもって行動することは、他人の利益のために自分をないがしろにすることではありません。それは結局、自分や世界への憎しみでしかないのです。愛をもって行動することは、自分を大切にしているからこそ、身の回りの人を助けたりすることもできるような、満ち足りているあり方なのです。だから、「他の人を助けよう」とか、反対に「自分が良くなろう」とばかりやっきになって、そのことが自己目的化してしまえば、本末転倒なのです。

そこに愛はあるんか??

 人の善悪や良い悪い、幸福か苦痛かを決めるのは、その人がどんな行為をしているか、どんな選択をしているかではありません。たとえば、大量生産・大量消費を避けるべきだと言って、今日からすぐに大型スーパーマーケットに通うのをやめたり、全て自給自足で賄おうとしたりするのが必ずしも善だとは言えません。それが自分も身の回りの人も全く無理なくできるならよいですが、そうでないのなら、無理があるところ、憎しみの萌芽があります。たまにチョット頑張る必要があるときはありますが、チョット頑張ったら、近いうちにしっかり休んで、生活を味わいましょう。ゆっくりじっくり時間をかけて、しかし粘り強く、変えていくのが大事です。

 もちろん、このような愛を忘れさせてしまうのが、資本主義社会の罪です。この社会で息苦しくなっている私たちは、この愛を思い出せなくなりがちです。ですから、最初のうちは《何をするか》という考え方で動いてしまっても仕方ありません。しかし、《どんな気持ちでするか》こそが大切なのだということは、頭の片隅に置いておいてください。気持ちが変われば、自然と行動も変わっていき、やがて正のスパイラルに変わります。

 

7. やりたいと思ったときにやること

 以上のルールからもお分かりかと思いますが、自分のそのときのやる気に忠実になることが結構大事です。私も、本ブログは定期的に更新することを守るのではなく、ふと思いついたときや、新しい挑戦をしてみたときなど、「更新したいな」と思ったときに更新しようと思っています。それでも納得していただける皆さんに応援してもらいたいと思います。

 

8. 以上のルールを守れなくても自分を許してあげること

 以上のルールも一つの理論でしかなく、不十分なところもあるでしょう。例えば、私は「怒りや悲しみは通過点でしかない」と言いました。これは私の様々な思い出や失敗体験に基づいています。しかし、もしかしたら皆さんの中には、もっと上手に怒りや悲しみをエネルギーにすることができる人もいるかもしれません。私にはまだ想像できませんが、そういった人なら、私のものともまた違ったルールで動くことができるかもしれません。

 

9. 以上のルールはこれからも柔軟に変えていくこと

 以上のルールも一つの理論です。これからの活動や実践を通して、随時更新していこうと考えています。そのときには、更新日時の記録などを添えて、皆さんにそのことが伝わるようにしようと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。

*1:M.シェーラー「道徳の構造におけるルサンチマン」『シェーラー著作集』4,白水社,2002.